僕として僕は行く。

旧・躁転航路

「本当に頭のいい人はバカにもわかりやすく話せる」は真か―カオスの分類

 自分自身、塾講師を長くやっていた事があって、その頃―精確に言うのであれば、その初期―においては、表題のような認識をもって自分自身を諌めていた。まあ生徒をバカと言うのもよいことではないのだけれど。けれど一応は講師のほうが知能が高く、生徒のほうが知能の発達段階にあるという風にされている。

 さて、色んな所で生徒は躓きを覚える。躓きにも数種類があって、原則論・抽象論としての理解が足りないための躓き、単に話を聞いていなかったから生じる躓き、小学生レベルの躓きを放置してきたから露見した躓き、練習量が足りないゆえの躓き、理解力ではなく精神性としての、プレッシャーに弱いことによる躓き。本当にたくさんある。塾講師はある種医者のようなものだと僕は考えていて、生徒の「病原」の根本を辿ることもあれば対症療法的なケアで間に合わせることだってよくある。個人個人の病原とその原因をしっかりと探ること、それが「本当によい講師」だとされる。そしてその病原は、学習能力としての問題だけではなくて、時に関係性の問題であったりもする。その場合の関係性とは、講師生徒間でもそうだし、生徒保護者間であったり、生徒教室間だったりもする。その場合は解決がなかなか難しい。一方が他方に対する不信感や恐怖心を一度いだいてしまうとその払拭は容易ではないし、我々は現実問題としてカウンセラーではない。そのように対応に四苦八苦している間にさえも受験や定期テストは刻一刻と歩みを進めてくる。

 以上見てきたように、僕は僕なりに塾講師としてある程度のプロフェッショナリティを獲得できていると自負している。そりゃそうだ、4年間もやって、しかもそのうち1年間を講師リーダーというポジションに就いていたのだから、人並み以上の何かを得ていなければ何をしていたんだ、となる。

 しかし、ある程度のプロフェッショナルであると自負する僕であっても、生徒との意思疎通には困難を覚えることが多々あった。それは、勉強を教える上でもそうだけど、それ以外のコミュニケーションにおいてもそうであった。こちらの問いかけに対する、生徒からの想定外のレスポンスというものが、4年間勤めて、誰よりも多くの生徒を見てきた自分にさえもまだ存在するのだ。要は上記のようなカテゴライズ不能な躓きであって、それゆえに上記のカテゴライズはMECE的には不合格なものなんだけれど、「その他」の範疇に収めるしかないレスポンスというものが無限に出てくる。それらに対して僕は「え、それどういうこと?」ってなって随分考えこまされてしまう。その瞬間に思いつく、生徒が選択したであろう理路がn通りだとするならば、更にしばらく考えるとそれは2n通りぐらいにまで増える。可能性としてはどの理路をたどっていても不思議ではない(なぜならそもそも想定外の理路をたどっているのだから)ので、そのうち蓋然性の高いと思しきものから「それってこう考えたっていうこと?」という風に順番に尋ねていく、という地道な作業を辿ることになる。また、そういった「その他」に収まるレスポンスの発話形態というのは、英語の5文型のような、必要最小限の文の構成要素を満たしていない一方で、必要最小限の要素に含まれない修飾語・修飾部をたくさん含んでいることも多い。しばらくの問答を経て、これらはやっと普遍性を得た文の形式を得て、共有可能な発話としての処理がなされはじめていく。「その他」としかいいようのないレスポンスに関する処理のプロセスはこれが―このように煩雑にも関わらず―最もシンプルなプロセスだと言える。講師としての自分のなかに引かれた分節と、生徒のカオスがあまりにも乖離している場合にはどうしてもこんな風にしか出来ないということになっている。

 だから、ここで一応は、頭のいい人というのは、知識を精確に分類できていて、かつそれらを表現に際して精確に組み立てられる人ということにしておきたい。この定義にはおそらくは異論は無いだろう。要は脳内の整理整頓が上手な人間ということだ。そしてそのような人間は、整理が下手くそな人間の脳内に関する知識に関しても一応は該当する引き出しを持っているということになっているし、また表題のようにそのような引き出しにちゃんと整理できてこそ頭のいい人ということにも世間的にはなっているように思う。

 しかしだ。考えていただきたいのは、カオスなるもの、混沌なるものの定義だ。形容動詞としての「混沌たる」が意味するのは「すべてが入りまじって区別がつかないさま」である。ゆえに、カオスはカオス以外の形容が不可能である。カオスにつけられる修飾語があるとすればそれは所有格としての冠詞のみで、Aさんの脳内のカオス、Bさんの脳内のカオスという表現こそすれ、Aさんの割と整ったカオスは語義矛盾がある。Bさんのヒステリックなカオスも何かおかしい。その場合、ヒステリーという形容詞に従ってある程度の整理が可能なはずである。また、AさんのカオスとBさんのカオスは相互に比較・参照不可能でもある。カオスはそれ自体が1つの宇宙であり、気が遠くなるほどの始原と、そして果てしない広がりを持つ。だからこそ、決して安易に引き出しに収められるものではない。それぞれにカオスには『くせや傾向・型と呼ぶにはあまりに乏しい”ゆらぎ”』(®冨樫義博)こそあろうが、相手のそんな”ゆらぎ”を完全に読み取り勝利したのが、ハンターハンター史上最強のキャラクターであるメルエムだったということからも想像のつく通り、ちょっとやそっとで出来ることではない。そんなメルエムでさえも、メルエム以前にハンターハンター史上最強とされていたキャラ・ネテロに対して、『身を盾にネテロの拳を受け続けることで王(=メルエム)はその先に見える幽かな光を探しだしそして たどり着いた』(®冨樫義博)とある。要はその「ゆらぎ」を理解するには実際に殴られてみる他ないわけであって、しかもそれは途方も無い体力を使うことであることは想像に難くない。現にメルエムが殴られ続けても大丈夫だったのは、キメラとして備え持った特異な防御力があったからこそであって。我々は残念ながらキメラではない。そんな風な、カオスのなかのゆらぎを発見するための、殴られる苦労を、一方的に、知能・知識のあるほうに押し付けるのは、いささか、っていうか、かなり傲慢すぎると思う。カオスは狂気であって、自身がそれを振るっている間には、その暴力性には気付かないのだろうが。

 カオスに対しては殴られ続けることでしか相手の呼吸のゆらぎを体得できない。これはおそらく揺るぎない事実である。ただ僕がそれを出来たのは、塾講師として金銭という対価を得ていたからだ。これを日常生活においてやれと言われるとひたすらしんどい。相手に対しよっぽど思い入れがない限りそんなことをしようとも思わないし、そんな義理もない。仮に本当に頭が良い人間がいて、あらゆるカオスを全て計算のうちに入れられる人間がいるとすれば、彼はどんなバカに対しても完全なる解説をして見せるだろう。しかし、あらゆるものが計算可能であるというのは、計画経済が可能であると考えた共産主義者の夢でしかなく、そしてその夢がディストピアを生んだことは忘れてはならない。残念ながらあらゆるカオスを計算し尽くせるものなどこの世には存在しない。存在するとすれば―そのカオスすらをも生み出した、神のみだ。だから、「本当に頭のいい神さまは、バカにもわかりやすく話せる」と言い換えるならば、表題は真である。