僕として僕は行く。

旧・躁転航路

祝いと呪いとミスチルと湘南乃風

 すっごいミスチルっぽいこと書くけど、自分の誕生日が訪れてもそれほど嬉しくない年齢に差し掛かってきたら、多分今度は自分が誰かの誕生日を祝う番が来ているということなのだろうし、そうこうしているうちに、自分たちの次の世代の誕生日を祝う番だってやってきて、でそのまた次もってなってるんだと思うし、そうなってくると、今度は誰かを送る番だってやってきて、色んな人生が行ったり来たりしていくなかで、出来るだけ呪いではなく祝いを、だなんて好きでもない内田樹の言葉を引用したりしながら。

 こういう文章のオチに音楽のせたりするの完全に文章の敗北だと思ってるし、それは秒速5センチメートルを見て(あれは文章じゃなくて映画なんだけど)確証に変わったことであって、しかしまあそこまで別にこの日記ってそこまで気合入れて作ってるもんじゃないしそこら辺は妥協してもよいか、と思ってくるりのBirthdayの動画でものっけてお茶を濁して終了としたかったのだけれど見つからなかった。あと、今日の記事だけでミスチルもくるりも出てきましたが、僕は別にミスチルもくるりも好きではないし、ミスチルのほうはお分かりの方もいらっしゃるかもしれませんが憎悪に近いものを抱いております。こういう風なヘイトの表明、誰にとっても得にならないのではという説もありますが、もしかしてこの人ミスチル好きなのかも、って疑惑を持たれるのすら拒否したいぐらい嫌い。あんなのはロックじゃないし、大衆迎合的だし、なによりも第一腐るほど金持ってるし、マジでいい加減にして欲しいとすら思ってる。

 まあ、こんなレベルのヘイト、呪いの言葉を僕は特定のミュージシャンに対しては度々することがあるんだけど、昔それで湘南乃風をボコボコに言いまくってたら(まだ湘南乃風がそういうイタい物の代名詞として流通しはじめる前の話ね)、その時の彼女にマジで泣かれてもう声を聞きたくないと言われたことがある。ああ俺のせいで一個この子の中で好きな物が無くなっちゃったんだなと、そう考えるとかなり悪いことしたなと思ったけど、今になってよく考えたらそこに何ら疑問を抱かないままあのファッキンワックなレゲエ紛いを聞いて感動できる感性を持った人間達こそが一番幸せになれるのだろうし、あいにく僕はそれを持ち合わせていなかった、まさに祝いのためではなく呪いのために生まれてきたのが私なのだっていう中二病的な喪失感を追体験するハメになった。あの当時だって多分似たようなことを考えたようにも思う。メランコリー、そして終わりのない悲しみ。セカイ系。みんなが幸せになれる音楽が僕を不幸にするんだ、みたいな。何言ってるんだろう、早く落ち着いてダサいポロシャツとか来て子どもの運動会でハンディカムとかまわすおっさんとかになりたい。