僕として僕は行く。

旧・躁転航路

穴が開いたのか、穴を開けたのか:That's the...

  あーとうとうやっちまった。7/10にブログを更新するの忘れてた。公開できる記事がなかったわけでも、またその余裕が無かったわけでもない。てんで忘れてたのだ。まあでも、なんつうか言うほど凹んでないのでよかった。それでモチベーションが崩れたらどうしようと思ってばかりいたけどそこまでのものでもなかった。あーやっちまったな程度にしか思わなかった。7/9のあとに7/11が来たとしても誰も死にはしないのだ、特にこれといった問題ではない。

 ~でも死なないから大丈夫だという言い方を僕はよく使う。勉強しななくても死なないので大丈夫だよとか。失敗したって死ななければ大丈夫だし、だいたい死んでしまったらもはや大丈夫じゃないので事後的に死んじゃったから大丈夫じゃなかったねとは声をかけられないし自らにそう言う機会も無い。このようにあらゆる失敗の受容を死ぬか否かというところの閾値まで下げて判断すると大抵のことは受容できるのでよいしおすすめしたい。私はこれで自分自身の強迫神経症的気質を克服しました。いや、それは適当ですが。

 でもだいたいの事において、みんな神経質すぎるんじゃないかと思う。極端に神経質であったり極端に無頓着であったりする僕に言われても、という話なのかもしれないけれど、だいたいの差異なんてそこまで決定的な差異じゃない(ポストモダン被れ)。究極はやはり「To Be or Not To Be」でしかないのだと思う。そうであり続けるか、もしくは辞めるか。不退転の覚悟とやらで断固主張すべきこと以外は大抵の場合僕にとっては切り捨て可能だし、みんなそれぐらいで良いと思う。言葉を使うということになぜそれほど神経質にならなければならないのか。言葉に限らず、概念の扱い、対人関係、はたまた、より包括的に、人生というものに。失敗すればいいし、転びながら覚えたらいい。僕のようなきかん坊は自分自身で転ぶしか学ぶ方法を持っていないのだけれど、これはもっとも効果的なショック療法だと思う。転ばぬ先の杖つきまくってる人が、現在進行形、もしくは現在完了進行形として転んでいる人間をやんや言うの、言われる対象にとっての示唆にはなるかもしれないけれど、言う主体としては特に学ぶこととか無いし、何よりも転んでいる人間の気持ちなんて一生わかんないと思う。自分自身で転べ、他人がどう転ぶかについて述べる前に。そしてその中で、彼がなぜここでこの石に躓いてしまったのか、違う石に躓いて転んで学べばいい。僕はそんな風にして今日も転び倒して、色んな人にバカにされつつ、適当に止血したりしながら生きていこうと思います。