僕として僕は行く。

旧・躁転航路

なぜ僕らはダンスするのか

 あいも変わらず生きているのは難しいことで、生きているだけで非常に多くの躓きがあり、それがむなしさとかやるせなさとかになって体のうちに堆積してくる。夜更けに目覚めた僕は本を読んだりSNSを見たりしていたわけれど、やっぱりそうしているだけでも躓きがあって、やるせない疼きのようなものが体中に充満するのをかんじていた。

 そんな時に、iTunesからはフェラ・クティのゾンビーという曲が流れてきた。パーカッシブなビートにのせて、どんどんやるせなさがブーストしてこみ上げてきて、行き場のない、救われない思いが蠢動しはじめる。それはある種、やるせなさのエクスタシーだ。いちど疼き始めたやるせなさは、アフリカ70の奏でるビートにのって、臨界点を目指しこの体を支配していく。そうなると、僕に出来ることは、音楽に合わせて体を揺らすことだけだ。行き場のないこの疼きに身を任せるほかない。そうでもしないと、やるせなさで頭がおかしくなってしまうだろう。僕はビートという魔術に支配されたゾンビで、もはや自律していない。だから、なぜ僕らはダンスするのか、というよりは、なぜ僕らはダンスせざるを得ないのか、という方が正確だ。鬱積したやり場のない思いたちが、音楽という隘路を通じて、体から出て行く。理性は停止し、ただ純然たる身体だけが現前してくる。ダンスミュージックは解放の音楽であって、それは普遍的なものであると同時に、時代的な要請をうけているのだろうし、そして個人的でもある。

 そう考えると、いわゆる洋モノのアダルトビデオにおいて、女性たちがやたらとダンスしているのは、何もおかしな話ではないように思う。エクスタシーという言葉をあげたように、ダンスすることが持つ過程というのは、非常に性的な感覚に近しいのだろう。性欲、リビドーというと非常に俗っぽい感じがするが、ニーチェが「力への意志」とよんだような類のもの、自己保存欲求というよりはもっと漠然とした、身体がもつ力を実現したり解放したりしたいという欲求が、セックスやダンスを求める衝動を規定している。ただ、日本的な文脈だと、セックスというのは、もっと文学的な趣をたたえている。ただ、文学的なセックスというのはありえても、文学的なダンスというのはまるで想像できない。セックスには他者が必要だが、ダンスには他者は必要ないからで、他者がいないということは、二人称もしくは三人称による記述が不可能であることを意味する。いわば純粋に内的な体験、それも記述不可能な身体的な反応としての体験だ。これは形而上学でも否定神学でもなくて、というかそもそも概念ですらなく、単なる衝動と身体の反応に過ぎない。だからこそ僕は、ダンスミュージックが好きなのだ。理由も記述も必要ない体験が、そこには存在しているのである。