僕として僕は行く。

旧・躁転航路

無化する世界

 サルトルという哲学者がいて、彼の言ったことの一つに「無化」の働きというのがある。平たく言ってしまうと、人が何か(便宜的に対象Aでもしましょう)を見ている時、実は視界のなかで、対象A以外のものを見ないように、無いものとして考えているのではないか、ということで、これが事実として正しいかどうかっていうのは結構場合によると思うんだけれど(たとえば、誰かに追いつこうとして追っている場面でも、視線でまず見ているのはその誰かでありながら、同時に他の人々や障害物を避けられたりする)、まあ便宜的に今回は基本的には正しいということにしておきたい。
 で、この「無化」の働きっていうのは実は視覚に限った話じゃないのでは、とさっき思った。たとえば音。ヘッドフォンで音楽を聞いている時には、世界にすでに鳴っている喧騒は一切耳に入らない。いわば、世界の雑音を無化することで、自分の本当に聞きたい音を聞いているというわけで。だから、そのためか、ヘッドフォンで音楽を聞きながら自転車に乗っていた時に、警察官が横付けしてきて、そんな風にして耳を塞いでいたために車の音に気付かないで起こってしまう交通事故が増えているので音量を下げるように、と怒られたことが一度ある。世界の喧騒を無化するということは、世界が音をもって警告を放つタイプの脅威を無化することでもあり、市民の安全を守る観点から警察としてはこれは看過できない事態である。なるほど、あの警察官は実はサルトルの教えを自らの職務に活用している生きた哲学者であったのだ。

 ということを、いまさっきファミレスで勉強しつつ、Aphex Twinを爆音で聞いて喧騒をシャットダウンしている中で、非常にナチュラルに放屁していた時に思いました。俺にとっては無化されたこの爆裂音も、食事中の皆さんには無化されずに届いております。今後気をつけましょう。