僕として僕は行く。

旧・躁転航路

美の観照とロマンチシズム

 11日の日記でも多少触れたんだけど、古代ギリシャ哲学とかをやっていると、美の観照を通じて神の存在を認識できるみたいな話がちらほら出てくる。そういうのが顕著になってくるのは、僕の学ぶ限りにおいては、ストア学派とか新プラトン主義くらいからで、これは一応は理屈としては納得が行く。理性と並んで、美しいものに感動する能力というのは他の動物ではなく人間にのみ許されたものであるし、そういった点でやっぱり人間は神の理法、ロゴスを分有しているのだ、みたいな話だから、まあ理屈としては通っていると思うし、古代ギリシャ時代の人々がそう考えるのも理解できる。だけれど、こういった理屈は、美しいものを見ても、圧倒されることはあっても、そこに神秘性とかをまるで感じられない僕にとっては、単に理屈でしかない。

 NLP(Neuro Linguistic Programming)というのがあって、それはまあ人間の知覚活動を色々と実践レベルで研究するものなんだけれど、それによると、すべての人の知覚の傾向というのは、視覚優位・聴覚優位・体感覚優位のそれぞれの型に分けられるらしい。で、ちょっとした場面を想定してその情景とかを文字起こしすれば自分がどの型なのかすぐにわかるのだけれど、僕の場合はかなりバランスが崩壊していて、視覚優位の値がほぼ0、聴覚優位と体感覚優位の値が飛び抜けて高いという風になっている。たとえば「海」をイメージしてください、となった時に、僕がイメージするのは、「潮の匂い、浜風、かもめの声、波の音、砂浜を踏みしめる感覚、砂浜を歩く音」という風に、ぱっと思いつくだけでも見た目に関する形容が一切出てこない。要するに僕は世界の見た目にまるで興味が無いということらしく、それはもう脳神経レベルで興味が無いらしいので多分どうしようもないのだと思う。

 だから、僕がストア学派や新プラトン主義のように、美しいものを見てもそこから神秘性を引き出せないのは仕方がないのかもしれない。脳神経レベルで見た目が美しいものに興味が無いので、こればっかりはどうしようもない。でも、僕が聴覚優位タイプであるなら、たとえば美しい音楽を聞いて神秘性を感じられるか、と言うとそれはそれで疑問符が残る。たとえば、Sigur Rosとか大好きだけど、僕がそこに神的な表象を見出しているかというと微妙といえば微妙だし、クラッシックはあんまり聞かないし。そもそも、現象の一切に、何か目的論的な意味付けを見出すのが苦手というか、平たく言えば、日々起こるそれぞれの出来事に何かしら意味があるとは考えてないし、僕がそこに見出すのは因果だけであって、たとえば美しい夕日を見ても、へえー、ここの夕日はこんな風に光が屈折してこんな色が出るんだなーという程度のことしか思わない。

 白けてるといえば確かにそうなのかもしれないが、でもかといって僕はニヒリストではないし、理想主義者であると間違い無く言える。でもその時に参照される理想っていうのは、超越論的なものに対するロマンチシズムを抱えるタイプではなくて、手を必死に伸ばしさえすれば届きそうな範囲のものに対するロマンチシズムなのだと思う。なんでそんな風なややこしい感じになっているのかはわからないのだけれど、まあそういうものなのだとして自己分析できるし、今日は久々になんかしら書きながら収穫のあるような話になったんじゃないかな、と思う。