僕として僕は行く。

旧・躁転航路

太陽を隠す雲の気持ちを知ってるのかい

 中村一義の最新アルバム、「対音楽」についての記事を、いくつかエントリ跨ぐような形でもう一個のブログに書いていこうと思ったけど、挫折した。挫折した要因は、色々ある。でも、根本的には、音楽という形の芸術は「ハマるかハマらないか」でしかない。だから、「敢えて言うならば」こういうところが好きになれないということを書き連ねていくつもりだったが、書いている内にどんどん嫌いになっていったので、もうやめとこうと思ったし、怖くなった。誰かの期待を背負うということは、本当に怖いことだと気づいた。それを裏切ってしまった時に、こんなにも根拠付けて駄目だしされうるのだな、と思ったし、表現者というのはそういうリスクがかなりある。
 今の中村一義の言葉は、僕には全然響いて来なかった。僕は最近よく、金字塔の楽曲を弾き語りしているのだけど、そこに込められている言葉の節々で、歌いながらじんと来ることが結構ある。一曲に一箇所はある。
 たとえば、街の灯。「勝敗ない自己の道筋に、影落とす 妙な足かせと傷に。」「ねえ、脆い流行り廃り、世も末なんてこう? 」天才とは。「いま、昔が溢れたっていいって。だって、本物はある。」魔法を信じ続けるかい?「現実的な見方をもって夢は見れる。」「友人も将来も道連れに行こうよ。」「ねえ知ってるかい。太陽を隠す雲の気持ちを知ってるのかい。」いつか。「愛に縁がないという人に限っていつも愛があふれる。」永遠なるもの。「そうだ、スヌーピー大好きな奴が、重タール漬けガイでもいい。」「青いよ、だって性分だ、そうだ、いい、まだ僕らはこの調子で。」
 僕が好きな中村一義はこういう歌詞を書く人だった。今の中村一義はこういう歌詞は書かない。これは良い悪いの問題じゃなくて、彼がそうなっていったし、僕がそこにしがみついている、というだけの話なのかもしれない。

 僕はずっと、太陽を隠す雲の気持ちについて考え続けていきたい。