僕として僕は行く。

旧・躁転航路

イエスマンに囲まれるぐらいなら1人のほうが絶対にいい。

 もう言いたいこと全部タイトルで言ってしまってるのでここからの一切は蛇足なんですが、まあ人間、声がデカかったり、アイデアが面白かったり、もしくは全うな意見を言える人は、なんか知らん間に権威にされてたりします。それ自体はある種仕方ないんですけど。いや仕方なくはないか。ちゃんと適切に距離をおけないとだめです。あっという間に権威にされています。ただでさえ皆さん権威が大好きですからね。虎の威を借るためにまず虎を作り上げるところからはじめる狐さんたちで溢れかえっています。まあ、人があつまってきて、それで気持よくなってばっかりだったら、そこで声がデカいだけのクソとか、全うなことをかつて言っていただけの現在的なクソということになってしまうんですけど。で、なんでそうなるかっていうと、段々こう身内にイエスマンばっか集まってくるんですね、権威になってくると。そのイエスマンっていう方々は、たとえると灯りに集まってくる蛾みたいな感じですね。蛾だから、まあ正の走光性があって、明るいところには集まりたくなる。シンプルでいいんですけど。でも勘違いしちゃいけないのは、それは自分がすごいんじゃなくて、まあ目立っててすごい明るいから、正の走光性がある生き物が寄ってきているだけなのです。よっしゃ、俺の言っていることはやっぱ正しい、というわけじゃない。俺の言っていることは目立っている、というだけのことです。当たり前ですが、正しさと目立っていることの間にはなんら相関性はありません。

 で、まあ目立っていると。それでもって、蛾がいっぱい寄ってきていると。でも、ある程度そういう蛾の集まってきた経験のある人とか、もしくは身近にそういう光景を見てたりすると、うわあこれヤバい奴だちょっとおとなしくしとくか、とか思うんですけど、なんかこじらせてたり、承認欲求がすごかったり、まあ単純に免疫がなかったりすると、おお〜〜我が友よ〜〜〜〜〜とか思っちゃって、なんと餌付けとかしはじめちゃう。そう、ここに「餌の出る誘蛾灯」が発生するわけです。そうなると、もはや公害なんですね。餌の出る誘蛾灯の周囲には、遠方からはるばる駆けつけた蛾とか、あと幼虫とかがいっぱい集まってきて、それはちょっとやばい。さすがに不快なわけです。撤去する必要がある。あと、もう蛾の柱みたいになってて、中心から外側見れないから、なんか意見の妥当性とかそういうことを客観的にブラッシュアップすることができなくなる。どうしても鱗粉まみれのものしか出てこない。そうなると、もはや外側から見て明るくもないわけです。ただの蛾の集団です。やはり駆除する必要が出てくる。

 まあでも、その中心にいる誘蛾灯氏は、もう蛾のことを仲間だと思ってますから、絆ですから、何すんだワレぶっ飛ばすぞと言いつつ、仲間には、俺達の絆を見せてやろうぜみたいなことになってくる。そうなると、もはや、悲劇です。公害を通り越した悲劇です。実にナルシスティックで、まあここまでくると芸術です。芸術なんですけど、まあ公害でもあるので、さっさと撤去しないといけない。ばっちいし。そうやって人は表舞台から姿を消すことになり、その跡には蛾の死骸とか、なんか蛹っぽいやつとか、あと鱗粉とか、そういうのだけが残ります。死屍累々ってやつです。

 

 ということを、某・炎上している大学教員のFacebookを見て思ったわけです。珍しくかなりタイムリーな話題ですが。こちらからは以上です。