僕として僕は行く。

旧・躁転航路

the Creator

 たとえばサッカーを見ていたら、このチームはここをもっとこうすればいいのに、と思い出す。たとえば特定のバンドを追い続けていたら、アレンジをもっとこうすればいいのに、と思い出す。似たような構図は、映画でも、小説でも、論文でも、漫画でも、割とどこにでもある。もっとこうすればいいのに、と言うプラスアルファの提案は、自分からすれば決定的なもので、その提案が実現すれば、事態が劇的に改善するのに、勿体無いな、等と思う。

 けれど、何かを0から創っていくにあたり、一番難しいのは基礎の部分だ。サッカーの、基礎のチーム作り。これは傍から見ていてわかるものではないし、おそらく監督経験者じゃなければ想像すら及ばない範囲なのだと思う。持ち駒はどうで、選手同士の、能力じゃなくてもっとソフトな面でのパワーバランスはどうであるとか、チームカラーはどうで、選手たちはどういう所を誇りに思っているのか。そういうのは実際に選手とボールを蹴ってみるまではおそらくはわからない。采配批判でもうこの監督のクビなんて切っちまえよと言いたがる外野は、おそらくその辺の事情を汲み切れていない。その監督でなければ、そんな基礎すらまるで作れていなかったのだ。

 音楽にしてもそうだ。ここの展開はこうすべきだ。ここのアレンジはもっとシンプルなほうが良い。ここでなんで歪ませちゃうかなあ・・・。これは、ある程度完成されて、パッケージングされた曲になった段階で初めて分かることだ。作曲においては、それまでに費やす労力のほうが圧倒的に大きい。なんせ、0から作るからだ。積み上げたものがある程度ある所に、次は何を載せたらいいだとか、何を引けばいいとかいうのは簡単だが、問題はそこまでどうやって積み上げるかだ。感性に従いすっとできていくこともあるだろうが、例えばコード進行がそのようにすっと出来上がったとしても、じゃあどんな主旋律を載せるか、リズム割りはどうするか、2本のギターはどう住み分けるか、そういった所はやはり0ベースのスタートとなる。何もかもがストレスフリーで出来上がるというのはあり得ない。それが0ベースということなのだろう。

 かつて、神がもっと信じられていた時代。その時代には、機械などというものはなかった。今よりもあらゆる作業が圧倒的に非効率で、あらゆる器具や道具は量・質ともに不十分だった。必然、人々は0ベースで何もかもを作り上げていく機会が今とは比べ物にならないほど多かったであろう。そんな中で、この世界を0ベースで作り上げた神の途方も無き叡智、発想力に対する畏怖が、人々の間で必然的に共有されやすかったのではないだろうか。いつの間にか、神とはあらゆる視点から俯瞰できるものの代名詞になってしまったが、元々は神とはそういう高みから見下ろすだけの存在ではなく、0から何もかも創造できるという力に対する畏怖、そういう泥臭い共感をもって迎えられていたのではないか、と思う。