僕として僕は行く。

旧・躁転航路

モラトリアムとは文字通り支払い猶予期間のことだった

 ずっと音楽を聞いたり、ギターを引いたり、曲を作ったり、サッカーや野球を見たり、本を読んだり、ブログを書いたり、時々アニメを見たり、ライブにいったりクラブにいったり映画を観たり、そういうことだけして生きていきたいし、逆にそれだけしていてはなぜいけないのかよくわからん気すらしてきた。

 義務と権利、みたいに、実は多分、何かを消費することは、生産する人間にのみ与えられた特権なのであって、趣味に耽溺し続けるというのは、諸権利における自然権のように、生きてさえすれば誰でも持たなければならないものだということじゃないのかもしれない。そもそも学生っていうのは、社会からすれば、将来的な生産活動に対する貢献を見越しての、種まき期間のようなもので、学生である権利を、金銭の支払いによって買っているようなもので、その金銭が生産活動に強いられるリスクを買い取ってくれているというのがその実であるのだなあ、と、年金の天引きが高いと悲しんでいる、一足先に社会人になった友人たちや、もしくは先輩などとお話していると思うことが増えた。

 話がどんどん脱線して、しかも抽象的で、その上まとまりの無い方向に行きそうで注意しなければな書かなければならないのだけれど、お金って不思議だなあと思う。根本的には情報でしかないもの。情報でしかないから限りなくスリムで移動が容易だし、その高いモビリティが資本主義のダイナミズムを生んでいるのだと思う。だから、お金は隅々まで行き渡って様々な生産活動の触媒となっているというのはわかるけれど、生活の一切が実はお金ですみたいなのってさすがにどうなのかと思う。物神化うんぬんじゃないし、本来の人間的な在り方とはみたいな話をする気はないのだけれども。

 お金に生殺与奪を握られているというのが根本的に居心地悪いと思うけれど、多分こういった形じゃなければ、おそらくは本当に暴力が生殺与奪を握るだけの話なのだと思うし、お金がなければここまで色々な消費対象が出揃うという状況はありえなかった。ただ、だからといってお金が生殺与奪を決するような状況のみが僕らの唯一解だとは考えたくない。僕らが生きたり死んだりするのは、僕らの手のなかにあるはずだ、というのは、多少強引な思い込みなのだろうか。

 いま、就職活動に伴う金銭的な摩耗と、家計の窮乏っぷりと、そして生活保護に関する風当たりの諸々とが、一斉にオーバーラップして、僕を取り囲んでいる。信頼という名の情報が、一斉に僕を囃し立ててくる。落ち着かない木枯らしの音だけが、あかぎれのした耳にしんしんと響き続けている時のことを、否が応でも思い出してしまう。僕は、支払い猶予とじゃなくて、債務破棄して、知るかボケ、生きさせろ、と思う。