僕として僕は行く。

旧・躁転航路

逆説的な話だが、サディストのための謙遜というものが存在するという。

 「敢えて挙げるとするならば」と、その男は言った。快活でありながら穏やかで、誤解を極力回避したいという思いからどうしても冗長になりがちな僕の話をしっかり聞いてくれる、面接官としては申し分の無い男だった。「沢山の魅力を話しているだけで伝わってくるのが素晴らしいのだけれど」、「でも君の謙遜は鼻につくところがあるよ。保険を打っているというか。君はとてもプライドが高いのが話していても伝わるし、それを悟られまいと、またここまで自分の限界も知っていますよというアピールのために『謙遜』を使う傾向がある」。そこまで聞いて、面接中なのに思わず吹き出してしまう。なぜなら、確かにその通りだからだ。今まで考えてみたことも無かったけれど、確かにそれはその通りで、その日は初めて「あ、人事の人って凄いんだな」と感じた日となった。

 その後、自分なりに思索を深めた結果として一つの結論に至った。僕がへりくだる時、それは往々にして会話における優位性を維持する必要が生じている時だ。会話におけるパワーバランスを常に握っていなければならないとどこか思っているらしい僕は、時折、自分を自らの手で相手より低く位置させることで、関係性を掌握しようとするきらいがある。それを彼が保険と形容したのもまたすごく正しい感覚で、現状として自分が出来ないことを相手が期待しているのだろうな、と感じた時には手早く保険を打ってリスク回避する。本当にその通りで、そしてそんな風に自分が相対化された瞬間は、本当に心地よい。特に自分が何気なく持っている「揺らぎ」のようなものを指摘されると、なぜだかそれは本当に愉快で仕方がない(ちなみに、こういった場面でで愉快になって笑ってしまうのは、余裕を見せるためのほほ笑みでもなんでもなく、単純に形容しがたい痛快さがある)。

 「私たちが君たちに大きな絵を描けるか試すのは、それが実行できるかどうかを見てるんじゃないよ」 彼は続ける。「そりゃ、社会に出ていきなり物凄いことやられたら、それはそれで素晴らしいけど、でもそんなことは期待してないんだ。」 「ただ、その意気込みがあるかどうか、それが重要で、私たちとしてもそれが見たくて聞いているんだよ。」  「それなのに君は、思慮深さが徒になってしまっているんじゃないのかな。」 「やっぱり人事としては、そこに見て取れるいまいち計算できない感じ、その能力をフルに活用する気があるかどうかという点では確かに判断が難しくなってきて、最終局面では弾かれてしまう、ということなんじゃないかな。」 穏やかだったその男の顔が、だんだんと薄く歪み始め、嗜虐の歓びを称えるかのような、笑みとも怒りともつかない表情が表出しはじめる。そしてそれを認めて、隠そう隠そうとしても僕もまた笑ってしまう。そう、これこそが人間だ。皮を剥いだ先にある実存なのだ―そう、この男もまた、嗜虐の人だったのである! 何のことはない、優位であることに至上の喜びを覚えてしまう狂ってしまった人間が二人、大阪の高層ビルの夕焼けに照らされていただけだったのだ・・・。