僕として僕は行く。

旧・躁転航路

表現とセクシュアリティ

 理想の女性像、っていうと僕の好きな女性のタイプはこういうので、っていう話のような感じになるけれど、そうじゃなくて、自分が女性だったらこんな風になりたかっただろうな、というのがあって、それは金原ひとみの小説に出てくる女性であったり、acoの歌詞に現れてくるような女性であったりするのだけれど、そういった意味での理想像、が、肝心の、男性の場合において見つけられていない。いいかえると、こういう言葉を紡げる男性が素敵だなと思うようなモデルをあまり見つけられていない。もちろん、男性でもいい言葉を紡ぎだす人は沢山いる。けれど、その場合僕が評価してしまうのは、その言葉の内容であって、その話者ではない。あくまで内容がそれぞれ独立して存在していて、好きなシンガーや作家とかは、その内容のアーカイブの持ち主として尊敬している、というような形になっている。非常に抽象的な話なんだけれど、女性の場合は、素敵な言葉を紡ぎだすその人となりが好きになる。男性の場合は、個別の素敵な言葉のアーカイブの管理者として尊敬するような形になって、少なくともそれで人となり全体を肯定するような形には何故かならない。ここにはなんとも言えない微妙な差異がある。

 変な話だけれど、いまの僕は、たぶん女性の一人称視点の物語は書ける気はしていて、でも他方では、自分の男性性みたいなのを意識しながら物語を書くのは難しいと思う。それは、先述の、金原ひとみやacoの提示する女性像のように、一つの総体、まとまりとしての人格みたい形式の、自分にしっくりくるものが女性の場合はあるのに、男性の場合にはそれが無い、ということに因ると思う。もしむりやり男性的セクシュアリティみたいなのを前面に出して表現するとすればどうしてもマッチョな感じになる気がする。けど、僕はあんまりマッチョじゃなくてガリガリだし、競争みたいなのかなりだるい。ただ、そう、本当にだるいんだけれど、競争原理とか、あと効率性とか、それに伴う分析的なかんじとか、そういうのがふとした瞬間に思考を支配したり、プライマリーに働いたりする瞬間がある。そういうのがもしかするとある種の男性的セクシュアリティなのかもしれない。なんでそう思うのかというと、そういう点を指摘してくるのが大抵が女の子だからです。

 もしかすると、こういった問題は、僕が男性にまるで興味が無いというか、異常に厳しい目線を注いでいることによるのかもしれない。だから、言葉の紡ぎ方にしても個別審査するような形になる。いわば、何か穴がないか探すような形になっているのかもしれない。それに対し、女性というのは、もう僕にとっては全く理解できない生き物だから、個別的に審査することなど不可能な世界だから、結局は総体として捉えるしかないのかもしれない。だから、同性に対して寛容で、何か減点対象のような要素があったとしても、それでもこの人の提示する総体としての人間が好きだ、と言えるような、シンガーや作家を、男性の場合にも見つけることが、ひとつのブレークスルーになるような気がする。