僕として僕は行く。

旧・躁転航路

学部生活の5年目が終わろうとする冬に思ったこと

 僕が思うに、僕は、それはもうあまりにピュアにも、そこそこの知名度のある大学に行けさえすればなんとなく人生の幸せが大方決まるような気持ちなのだったと思う。だから、大学を選ぶ時にも、自分の手の届く範囲内でもっともネームバリューのある大学名と学部名を選んだ(謙遜ではないが、そんなにやたら立派な大学に通っているわけではない)。だから、大学受験が終わった直後は、封建的な高校生活から解き放たれることの喜びと、更に自分の人生がそこそこ安泰な軌道にのったという錯覚から生じる多幸感で満ち溢れていた。

 インターネットを見ていると同じ経験をする人が少なくないようだが、僕もやはり、入学してしばらくして、大学という空気感に適応できず、行かないことが増えた。僕の場合は、大学よりもバイトのほうがずっと面白かった。満足とも不満ともいえない、採点するならば60点程度だった自分の大学受験が、なぜ60点でしかなかったか、そうでなければならなかったかということをじっくり吟味する上で、塾講師というのは最適なバイトだった。

 そして、ありがちなことだが、その後時が経ち、みながするように就職活動をして、これまた何か違うのではないかという違和感を拭い切れないまま、意中の企業に最終面接でフラれることが数回続いて、とうとうモチベーションは息絶えた。というより、身体としての頭脳が、意識を越えた段階で就職活動にNOを突きつけた。文字通り「足が動かない」ということは生まれて初めてのことだったので、単なる「足が重い」とは違った純然たる現実に目を向けざるを得なかった。受験勉強はクイズだったが、就職活動はクイズ以上の、覚悟や、生き方が試される何かだった。僕には、一企業人として生きていく覚悟が根本的には足りなかった。そもそも、そんなものの必要性が今でもよくわからない。だから、右に述べた「意中の企業」とは、主に収入面で満足できる企業でしかなかった。斬新なことをやっていて、ある意味暴力的なまでのビジネスモデルを組み上げて一躍有名になっている企業もそこには含まれているが、実際そんなことはどうでもよかった。要は、収入の高さで、一企業人としての覚悟の無さから生まれうるであろう戸惑いなどを覆い隠せるのではないかという期待だけでその東京の企業に大阪から通い詰めたが、そんな企ては結局うまくは行かなかった。もしかしたら、こんな破綻は予めわかっていたことなのかもしれないが、今となってはもはやどうでもいいし、それについて考えてもあまり何も意味がないように思う。

 話を戻すと、僕は、有名な大学に行きさえすれば幸せになれると、少なくとも大学受験の頃には思っていたのだった。だが、この想定は、もちろんながら崩壊する。なぜなら、肝心の、自分にとっての幸せが何かという定義がしっかりとなされていないからだ。僕には、幻想としての幸福がぼやっと見えていて、それがそこそこの有名大学に通うことで得られるという心づもりがあったし、またそれしかなかった。そこで出会った決して多くない友人の大半が立派なサラリーマンになったり、世界中を旅したり、起業したりということに幸福を見出していくなかで、彼らの求めるような幸福に適応するには、僕が思っていた以上にストレスがあった。社会一般の幸福の定義がわからないけれど、少なくとも、大学受験までは、よい大学に行くこと、というような一般的な美徳に対しては簡単に適応できた。小学生の間はよく遊ぶことがおそらく美徳なのだろうし、中学生の間は部活を一生懸命やることが美徳だったろう、そして高校においては大学受験でそこそこの成功を収めることが美徳だった。これらは、それはてめえの美徳でしかないだろう、と言われればそのとおりだが、社会一般の美徳から著しく乖離しているということはまずないと思う。つまり、それぞれの人生段階において、一般的な美徳というものを僕は何の疑問もなく受け入れることが出来てきたのだ。

 それなのに、なぜ大学生活〜就職活動においては初めからみんなのように出来なかったのか? こんなことは自分の人生で本当に初めてのことだった。だからこそ戸惑い、そして、問題の定式化すら今日という日まで、遅れに遅れた。5年目の冬、自分しか認知していない6年目の学部生活がほぼ既定路線化されているこの状況になって、ようやく見えてきた一つの問題提起だ。そこには色々な回答がありうるだろう。そして、その問いは、ありがちだが、結局のところ「僕の幸福とは何か」という問いへと帰着するだろう。そう考えた時、僕にはまだまだ手付かずの問題が山積されているのに、ようやく気づいた。聡いと思っていた自分が、人より遠回りして長く考えなければならない、あまりに多難な前途に、自分がいることにようやく気づいたのである。