僕として僕は行く。

旧・躁転航路

そこへ愛と共に僕は行く

 当たり前の話なんだけど、どんな学問の概説書や教科書であっても、まず最初に始まるのはその学問の最初の起こりみたいなところで、たとえば日本史なら氷河期とかの話からすることになって、ことに人文系学問は、現代的観点からはもはやあまりリアリティの無い内容をいきなりやらされるハメになることが多い。だから僕は大学入試の時の日本史は、自分が一番興味のあった明治・大正・昭和から先に済ませて、そのあとに幕末から順番に遡って行くという、おそらく特殊な取り組み方をしたりした。自分の中では、こういった風に興味のある所からまず手をつけて、そことの比較で他の箇所も勉強するという方法論は第一選択肢であって、先日、2〜3週間かけて概説西洋政治思想史を勉強した時もそれでやった。

 けれど、今やってる概説西洋哲学史では、あえて最初から、すなわちギリシア哲学から取り組んでいる。それは、哲学という学問が、何度もその始原=ギリシアに戻りながら発展してきたものだという特徴があり、要するに始原の重要性が現代的に見ても(反省的・肯定的の両方の意味合いで)大きい学問である、というのがあるだろうけれど、それ以上に、ある程度、哲学という学問全般に対するリスペクトがあるからできることのように思う。また、現代哲学がある程度わかるというのも大きい。それは要するに、日本史のように新たに取っ掛かりを作ってやらなくても、既にそれが出来ていて、かつその取っ掛かりから始原に至るまでの道筋が自分なりに見えつつあるということでもある。一般的に言って、学問を基礎からやる場合に、それを始原から受け入れようと出来るのは、概ねその学問に対する敬意が先んじて存在している場合だろう。

 こう考える時に僕が思い出すのは、高校時代に科目の好き嫌いをせずに、どれも均等にーそれでいてそれぞれに応じた楽しみ方をもってー勉強できていた友人たちだ。彼らは、科目(=個別具体的なもの)を場合によって愛したり愛さなかったりしたのではなく、根本的に、学問という一般名詞で表現されるものの総体を尊敬していたからこそ、全てを始原から受け入れることが出来ていたのだと思う。僕が始原から受け入れることが出来た科目は、せいぜい英語ぐらいだ。それは、僕にある程度英語の前提知識があったこととは無縁ではあるまいーちょうど僕が、哲学を始原から受け入れようとする準備が出来ていたのと同じように。だから僕の友人たちも、あらゆる学問に対する前提知識があったからこその、素直な受容だったのではないか、と考えられる。それはおそらく、狭義の「座学」の範疇に収まらない「教育」の賜物であり、彼らはきっと、世界の全てを尊敬し、愛することを教わって生きてきたのだろう。少し前までの僕なら、おそらくは彼らに嫉妬し、自らの境遇を呪っていた。しかし、僕は今となっては、学問を始原から受け入れるための、敬意と愛の持ち方を知ったのだ。「そこに愛が待つ故に僕は行く」のではなく、「そこへ愛と共に僕は行く」のである。