僕として僕は行く。

旧・躁転航路

人生あと長くてだいたい60年ぐらい

 一生のうちに生きられる時間なんてあんまり無いのだから一生懸命生きないとみたいなこと言ってる奴を見かけると前提が当たり前すぎて何いってんだコイツ、俺は俺のペースで生きるしそんなにせこせこしとうない。とか思ってた僕なんですけど、その一生のうちに生きられる「時間」の部分をもっと具体的なものにかえるとなかなかリアリティあるなって最近気付いた。

 というのも、人間が一生のうちに読める本の冊数なんてよくもわるくも限られてるわけで。んでもって僕なんてだらだら読みたいし、読みたくない時には読まないみたいな人間で、誰かに読みなさいとか言われたら尚の事だるいみたいなタイプの人間だったんだけど、でも現に一生のうちに僕が読める本の数ってマジで限られてるよな、みたいなことに今更気付いたんです。で、今から社会人とやらになっていくのだとすれば、というか、社会さんサイドがそれを許してくれるのであれば、僕の可処分時間なんてどんどん減っていくし、マイペースに本を読める時間なんて限られてくる。これはヤバい。

 一般的にはここで、ヤバい、小説なんて読んでる場合じゃねえ、就活しないとってなるんだろうけど、僕の場合はなんない。むしろ、ヤバい、就活してる場合じゃねえみたいなこと半ば本気で思う。だけどだけど~、大学院には行こうとは思わない。考えてはみたけどね。でもやっぱりだめだ。合わないと思う。趣味でやってることを指図されたらたまらん。盆栽作りしているおじいちゃんにここはもっとこうしないとダメっすよ~とか言ったとしても、よっぽど柔和なおじいちゃんでない限りそれを受け入れはしないだろう。んでもって、僕は柔和なおじいちゃんではない。キレるジジイである。しかも大学院の場合そのキレる対象が一応は目上のジジイということになるのでこれではただの老人ホームにおけるケンカである。これはよくない。誰も幸せにならない。ということで、僕は老人ホームじゃなくて自宅の縁側で日向ぼっこしている猫をなでながら一方で血眼になって本を読み続けるみたいなスタイルでやっていくしかない。そのうち血眼になって猫を撫でて、血眼になった猫に復讐されて死ぬ。そういう人生で別にいいと思う。