僕として僕は行く。

旧・躁転航路

AKB48が喜び組とダブって見えて仕方がないという話

 ということをyoutubeにあるPV(水着で全員(全員なのか?)が揃って踊るやつ)を観てて思ったのだが、誰か同じことを言ってそうだなと思って検索してみたら、週刊文春さんが同じことを思っていた。いや、僕はそういうゲスい(ゲスいというと失礼だが)発想で、やれ人気のある~はどこのだれだれの女だとか、誰と寝たから人気出たとかそういう話がしたいのではなくて、もっと構造的に似てませんか?という話がしたいのですが。

 それで、具体的にどこがどう喜び組っぽいかという話をしていこうと思ったんだけど、ある意味炎上しそうだなと思ったので、出来るだけマイルドに伝えられるよう努力します。予め何よりも先に言っときたいのだけれど、僕自体AKBのファンの方を軽蔑しているとかそういうことはないですよ。ああいうエンターテインメントはいつの時代だって求められてきたんだろうし、だいたい遡れば大奥とか、あ、これ余計危ない発言だ、まあとにかく可愛い女の子をいっぱい集めてワイワイしたいという願望はなんかずっと昔からあるみたいだし、ある意味自然な流れなのだとは思います。

 で、それらを踏まえて言っちゃうと、まず年端のいかない少女たちを、かなり多く集めて、んで歌って踊ってやらせて、その中で誰が人気だとか競わせている点なんかは、もうまさに喜び組なんじゃないかと。違う所といえば、金正日が所有しているか、それとも一応は開かれた経路で一般市民もアクセスできるかどうか、という違いこそありますが。でも、秋元康の手がけるところの民主主義的発想なんて詭弁もいいところで、要するに彼のやっていることは票は金で買えるとかそういう話なので、民主主義の根本とは絶対に相容れないし、むしろ最悪の結末を招くタイプの民主主義的手法なのは言うまでもないのですが、まあそこにマジレスしても仕方がない。秋元康はそういう背徳感とかすら金銭の獲得と性欲の充当に使えてしまう男なのだ。とはいえ、そういう欺瞞的な手続きっていうのがやっぱりどうしても独裁とかのイメージに僕は繋がっちゃうし、そこから彼女らを非常にふしだらな(ジジイか)格好で歌って踊ってやらせるっていうのは、喜び組を連想するなというほうが難しい。

 まあそこで一つ考えられる反論としては、じゃあなんでモー娘。はOKなんだ、ももクロは許せるんだとかいう話ですが、まず一つ言いたいのは、別に許せる許せないとかいう話をしているんじゃないってことで、んでもう一個いうならば、やっぱり数の暴力みたいなのを~48系には感じる。どこにその線引きがあるんだと言われるとなかなか難しくて、具体的に何人までならOKで何人以上になると暴力なのか、とか突っ込まれると辛いのだけれど、ほら、カラスが数字を10までなら数えられるとかそういう話あるじゃないですか。10越えた途端「もうわからん!いっぱい!」ってなる。「5,6,7,8、9,10、んでその次はもういっぱい!」っていう。んで、そういうのって、何となく実は人間にもあるんじゃないかなと思うんですよ。たとえば3人と10人ならぱっと見でどっちが多いかわかる。けれど、47人と49人じゃパッと見ではほとんどわからない。要するに、パッと見ではほとんどわからないぐらい沢山の人間を集めているというのがなんか暴力っぽいんですよ。少なくとも僕にとっては。うわ、もうとにかく沢山の可愛いっぽい女の子をかき集めている!というダメージ感がある。

 あと、僕はももクロとかも社会として受容すべきじゃないとすら思っています。といっても、彼女らに非はなくて、むしろ彼女らを希求してしまうような社会ってマジでヤバいんじゃないのとかそういう話ですが、それはまた今度に置いといて。

 話を本筋に戻すと、AKBが喜び組っぽいのは、もう正直これはあまり言いたくなかったんだけど、なんとなくずっと書いてて説得力が湧いてこないので言うと、全体的にB級っぽいところとか、かなり喜び組感がある。絶世の美女、傾国の美女!っていうレベルの女の子がいなくて、そこになんともいえないスケール感の小ささを感じてしまうし、そこが喜び組っぽい。いや、一人一人見ればすごくお美しいとおもいますよ?でもあの中に世界を変えてしまうレベルの美少女がいますか?っていうと難しいと思う。狭い狭い北朝鮮のなかで将軍さまのお眼鏡に叶ったおなごが掻き集められてきてさらに切磋琢磨、美を磨き続けるみたいなのに近しい何かを感じる。

 

ということで、日本の喜び組のPVです。