僕として僕は行く。

旧・躁転航路

3月

 3月になった。しかも3月になっただけじゃなくて、3月11日にもなってた。時間があっという間に経過していく。2月の記憶、特に無い。2月2週目ぐらいから映画ばっか見ててさすがにまずい、映画、面白いけど、それで何かこうどうにかなるということはない、このペースで見ていくと、映画いっぱい見てるだけでただの堕落した人間になると思うので控えていきたい。そう考えると今度は一切見なくなった。丁度良さを身につけたい。

 記憶ないの、別に2月に限ったことじゃない。2011年3月ぐらいからだいたい記憶ない。それ以前とそれ以降ぐらいしかない。今日、というか昨日、震災関連のことをバイト先で取り扱ってそういうことを思った。色んな記憶がぼやっとしていて、時系列はいずれも確証がない。

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 最近、一般的に言われる「成功」とやらについて考えることが多い。そういうストーリーに迎合できる人のことが僕は羨ましくもあるし、妬ましくもある。成功、多分何かしらの結果であって、それ自体目標にするのは何か違う気がする。むちゃくちゃ狭き門での成功ならともかく、社会的成功みたいなのは、こんな時代でさえも、ある程度方法論としては確立されているように、周りを見ていても思う。でも、そんな風に失敗しないように失敗しないように生きていくのは僕は嫌だ。それならデカいヘマをやって地獄を見るほうがよっぽど興味はある。

 どうしてそうなったのかは知らない。ヤケになってるのかもしれない。そう考えると、生まれてからずっとヤケではある気がする。ヤケといえば、僕の目標であるところの、タフな人間というのは、人生のポイントポイントでヤケにならず、建設的な判断で、粘り強く戦っている。だけど、もし、その根底にあるのが、成功という概念への盲従であるならば、そんなタフさは僕には要らない。そんな風にして何かを手に入れたとしても、その足場がただの幻影だったと気付いたら、僕はすべて投げ出すだろう。何故なら、ヤケだからだ。

 上手く行っていた気がするもの、楽しかった気がするもの、それらが最近は急に真逆に走り出している。それでも失いたくないものに関しては、ヤケになってはいけない。僕の唯一の気持ちの切り替え方は、対象を完全に切り捨てることでしかなかった。でもそれじゃいけない。成功とやらのためではなくて、自分自身の満足のために、タフになる、粘り強く戦う必要がある。