僕として僕は行く。

旧・躁転航路

現在の中国の反日気運はかつての期待の裏返しなのではないかという試論

 ※これはあくまで試論であり、もっと言うと単なる思い付きなのであって、その論拠として採用するのも専ら一冊の書物(伊藤博文―知の政治家 (中公新書))であり、妥当性などについてはさらなる検証が必要ですし、反駁も容易だと思います。

 

 長々と過剰な前置きを書きましたが、このエントリの要諦としてはほぼタイトルに書かれた通りのことです。伊藤博文という人がいまして彼は1909年に韓国で暗殺されるわけですが、遡ることその11年前(1898年)には清韓両国を訪れていまして、その際には戊戌変法運動という、清の文明国化を目指すグループの指導者にめちゃくちゃ歓迎されているわけです。しかし、伊藤の滞在中に西太后ら反維新グループのクーデターが勃発し、戊戌変法運動は一旦頓挫、この指導者のうち一部は日本に亡命しているという一件があります。で、そこからまた少し年月が経過した1906年と翌1907年には清から日本に「日本憲政調査団」というのがやってきまして、その名前の通りの調査をめっちゃしています。この調査団に対して、有賀長雄という伊藤博文の超オキニの人物が憲法とは何たるかとかをめっちゃ教えています。彼が行った講義は計60回に及ぶとされます。憲政調査団は日本の他、ヨーロッパにも派遣されていましたが、同じ極東に位置して文明化に成功した日本に対する清の期待は並々ならぬものであったと想像されます。そもそも、1907年といえば、伊藤が清に訪れた1898年にしても、日本憲政調査団(清末憲政調査団とも)が来日する1906年にしても、日清戦争が終わってからのことです。戦争で負けた国の指導者に教えを請うというのは恐らくは本気じゃないとできません。こういった清の改革姿勢に対して、伊藤博文のツレである伊東巳代治なんかは、伊藤博文のほうもかなりノリノリであるぞみたいな事を言っているわけです。

 ですが、伊藤博文実態としては、正直言うと清の文明化に対してはあまり賛同できていなかったようです。まず戊戌変法運動ですが、その性質が急進的すぎる(伊藤は専ら漸進主義者です)のと、宗教色が強すぎるのであんまり好きじゃない感じで、あと伊藤のオキニである袁世凱を追い出したりしているのも決定的だったようで、戊戌変法運動の指導者・康有為を突き放したりしてます。そして、のちの清末憲政調査団に対しては、その要人・載沢が伊藤に「憲法の制定の順序ってどういうのがええの」と尋ねた際に、「君らは日本と違って明らかに多民族国家だし、立憲制度とかやめといたほうがいい、混乱するだけ」とこれまた冷ややかな態度。無論、後者に至っては、伊藤なりに中国のことを考えてもいるわけですが、それにしても、同じ極東でいち早く文明化を遂げた国の、その立役者がそういう態度だったというのはガッカリもガッカリだったでしょう。清としては、中華思想から来るプライドも折って頭を下げに来たのにその態度はないだろうということも、もしかするとあったかもしれません。

 で、のちの日本の大陸進出によって、康有為や載沢が先立って受けていた失望を、今度は国家単位で追体験することになるわけです。これはおそらく、ヨーロッパの列強に侵略されるのとは全く別種の失望や怒りなどがあったでしょう。こう仮定すると、だからこそ、日本の中国進出は別におかしなことじゃない、列強はみんなやっていたことだろうが!というタイプの日本の植民地主義に対する弁明は、少なくとも中国側の人々にとっては的外れ、ということになります。そうすると、プライドを折って助けを求めたのに、その手を払い除けた上でしかも植民地化して踏みにじるとは!血も涙もない奴らめ!鬼!! という風に至るのは、少なくとも心情の流れとしては、あながち不自然なことではありません。

 ただ、実際にそういうのが反日思想の根本にあるかどうかは僕は一切知りません。あくまで、事実に基づいたところからの推測でしかないです。ちなみにここでいう事実とは、前掲の「伊藤博文―知の政治家 (中公新書)」から読み取れる事実を指し、それ以外の推測の部分は完全に僕個人の考えで、著者である滝井氏はそんなことは一言もおっしゃっていないというのだけ、強調しておきます。