僕として僕は行く。

旧・躁転航路

煩悩(2)

 年を取れば自然と煩悩から抜けられるという僕の思い込みって考えれば考えるほど馬鹿げてるものだと気付く。電車にのれば老婆の群れが乗ってきて、女子高生とはまた違った種類の喧しさをもってピーチクパーチクしゃべり続けているし、彼女らは彼女らのなかでオシャレ競争をしているみたいでメガネの淵が蛇だったりしているし、元気にハイキングしに行く元気はあるのに電車内で座席を要求するようなやつだっている。煩悩はコントロールする訓練を行わない限り煩悩として人に残り続けるのだろう。

 煩悩に対する僕の理想形というのは、完全なる虚脱の境地だ。何も望まず、ただ泰然自若と日々を観照できるようになりたい。でも、山田詠美の「僕は勉強ができない」に出てくるようなお爺さんというのは、むしろ煩悩を軽やかに乗りこなすということを楽しんでいる。おそらくは帰結としてはその方が容易なのだろう。その方がセンス良く映るだろうし、モテるだろう。だけど、僕はどうしてもそうはなりたくない。ジジイになってまで、なぜセンスよく生きなければならないのか。僕はただひたすら静かに死を待ちたいのである。そして、そのためには煩悩などというものが決定的に不要なのである。

 ここで結局、煩悩とやらをどのようにして滅却すればよいのかというテーゼに辿り着く。この話題は、後々に譲るとして、というか、人生の課題として、考え続けて試行錯誤し続けて行くことにしたい。