僕として僕は行く。

旧・躁転航路

煩悩

 おじいさんになったら僕はようやく煩悩から解き放たれて穏やかな境地にいたれると思っていたし、だからこそ早くおじいさんになりたいとよく思うのだけれど、どうやらあながちそんな単純な話でもないらしく、むしろおじいさんになったほうが煩悩がパワーアップする人も多いそうで、それを知った僕は軽い絶望に打ちひしがれている。
 そんな煩悩じじいにならないためには、多分ある程度若い内から煩悩との付き合い方を訓練しておくほうが良いのだろうけれど、でもそこには二種類ぐらい思いつくだけでも方法がある。一つは、煩悩を抑制し、鎮める訓練をしておくこと。もう一つは、思いのままに煩悩を発散させる練習をしておくこと。このどちらの方法が正しいのだろうか。方向性としては真逆である二つの選択肢だけれど、煩悩のトレーニングという意味では共通している。
 そもそも、煩悩という言葉自体が仏教の用語なんだから、本来的には煩悩と向き合う方法も仏教に従うのが一番良いのかもしれない。先人たちの多くが手を焼いてきた煩悩を、現代の、はたちそこそこの若者が一人でどうこう出来ると思うほうが間違っている。ああ、勉強しないといけないことがまた増えた。