僕として僕は行く。

旧・躁転航路

バランスとエネルギー

 狭量な人間を見てるとイライラしてしまう。そんなの解釈次第なのに、なんで負の側面ばっか見るんだろうって。正の側面と負の側面、この両方から見て漸く物事ってある程度バランスが取れるのに、なんで負の側面だけ見て、ダメな方向に行っちゃうんだろうって。

 でもそれは、多分元々僕がそっちタイプの人間だからそうなんだろうな、と思う。その矯正に随分と長い時間をかけた覚えがあるし、こいつはその努力を怠ってるんだ、っていう怒りみたいなのがどこかにあるのかもしれない。けれども、僕はもうその頃の狭量な僕ではないという意味でも、そして元々そうだったんだから気持ちはわかるはずという意味でも、そんな風に苛立つ必要なんて何もなくて、この人にはこの人の、負の側面ばかり見てしまう事情があるんだ、という風に見れるようにならないといけないのかもしれない。

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 けれど、そうやって色んな人や物、状況に対して同情的というか共感的になるにつれて、同時に僕の切れ味みたいなのが落ちていっているような気はする。やっぱりエネルギーのある友人とかは、その辺はある程度無視を決め込んで、理解できないものは理解できないという態度をキッパリ示し切る人が多いように感じるから、なんつうか、もしかするとこれもまた一長一短なのかもしれないと思う。多分、社会は同情的である以上に、理解できないものを多少なりとも強引に矯正できる力を持った人間を求めているという側面もあるし、その見せ方の使い分けとかっていうのは、きっとかなり難しいことで、これから多かれ少なかれ社会に出ていかざるを得ない僕は、そういった能力をどんどん求められてくるのかもしれない。