僕として僕は行く。

旧・躁転航路

怪人二十面相

 特定の顔を使い分けたりし続けてると、そのうち普通に自分が辛くなるし、だいいちそれ自体相手に対して、周りの人に対してすげえ卑怯だなって思うから、もう包括的に自分というものをちゃんと開示できるようになろうと思ってこのブログを始めたけれど、ずっとそういう風にして生きてきたわけだから自然と取り繕って振る舞ってしまうし、そもそも僕自身の人格がそんな風にして何重にも分裂しているという事実さえも忘れてしまっていたぐらいで、なかなか自分がそんな風だっていうことすら意識できていないことが多い。それが、種々のトリガーによってようやくついさっき思い出すことが出来た。

 けれど、もう正直、この性格をどうこうするのって半ば不可能なように思う。自分の人格が無茶苦茶でマジで統一性が無いことにかれこれ何年も向きあってきたけれど、結論としてはもはや自分自身には統御できないという所に落ち着こうとしているし、隙あらば"演技"を始めているので本当どうしようもない。「これが仮の人格で、僕はどうしようもないペルソナに邪魔されているのだ~」とかそんな風なことを言うつもりはないけれど、でも事実として何枚もの全く別人格と言っていいようなペルソナを無意識に使い分けているし、それで周囲の人間をブンブン振り回して事後後悔する永遠の輪廻みたいなのに嵌り込んでて抜け出す方法がない。もはやあと残された方法としては功徳でも積むぐらししか思いつかない。俗世で出来ることは大体やった気がするし、あとはもう魂の次元で神とか生命そのものとかそういうのと対話を重ねるぐらいしか思いつかないんで、誰かいい寺とか紹介してください。出来れば、阿修羅像がいっぱい置いてあるお寺がいいです(阿修羅には顔がいっぱいあるので)。

 


二十面相は「変装がとびきり上手」で、「どんなに明るい場所で、どんなに近寄ってながめても、少しも変装とはわからない、まるで違った人に見え」、「老人にも若者にも、学者にも無頼漢にも、イヤ女にさえも、まったくその人になりきってしまう」、「本人にすら本当の顔がわからない」大怪盗。 怪人二十面相 - wikipedia

 

 顔がいっぱいある界の権化、顔たくさん界の重鎮は、阿修羅さんの他には怪人二十面相さんがいる。引用部に書いてあるような、「本当の顔」なんて無いこと、怪人二十面相さんも実は知ってたと思う。あるとすれば、それら全部の集合体こそが彼の顔だったんだろうし、彼も自分の顔というものが一つに特定できるとは思ってもいなかったのだろう。ならば、道化として生ききってみせよう、ということなのかもしれない。徹底して道化たること、それも顔たくさん界の人びとにとっての人格の統御の方法だろう。しかし、僕は彼ほど強くはない。意識してコントロールするには限界があるし、それについての挫折は幾度となく味わってきた。だが、もしかすると、怪人二十面相さんもまた、最初はそんな風に、自分の人格のコントロールに苦しんでいたのだとすれば―。そういう物語として、「怪人二十面相」の物語を読みなおしてみたいな、とふと考えた、台風が過ぎ去った夜の日記です。そういえば、気候にも沢山の顔がある。険しくもあり柔和でもあり、そしてそれらが全て集まって、日本の気候という顔を作り出している。日本の気候のように、その沢山の顔が、人びとに当たり前のように受け入れられていたのだとすれば、怪人二十面相さんも、道化を演じる必要なんてなかったのかもしれません。