僕として僕は行く。

旧・躁転航路

いわゆる声豚の方々にとって、声優とは現代の巫女なのでは無いか。

  • どちらも処女的純血性(=穢れのないこと)が求められる
  • 同一次元に存在しない物を降臨させるための触媒である

 この二点などは特に巫女とアイドル声優(という形容が正しいのかわからないが)に共通している。また、中世に存在したという渡り巫女は、”傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇”を行なっていたともされる。つまり、漠然としたパブリックイメージの巫女というよりは、その中でも渡り巫女という存在に近い。

 また、そもそも、日本人の神の崇拝方法として、神そのものを崇拝する以上に、その宿るところもまた崇拝するというものがある。それが自然物崇拝として生き、アニミズムとして今日は理解されている。また、卑弥呼などをイメージしていただければわかりやすいと思うが、そのように神託を得たシャーマンは度々崇拝の対象となった。そして、この図式をアニメに当てはめるならば、アニメキャラクター=神であり、声優=神を降ろしてくるシャーマン、となる。いわば、自力では降臨させられないキャラクター=神を呼び寄せ、それを留め操る器としての巫女=声優なのではないか。ゆえに、声優に穢れがあるということはそのまま神=アニメキャラクターに穢れのあることに直結し、信仰すべき・畏怖すべき対象としての振舞には相応しくないという理路を辿ることになる。

 

 ということを、これ(最近の声優ファンの発言が酷すぎる:http://gasoku.livedoor.biz/archives/51838701.html)を読んでいて思いましたので、多少ぐぐったりしながら書きました。

 

追記:

それまで「絵」でしかなかったものに対して声という生命の象徴を吹き込む―それはまさに「命を与える」という象徴的行為で、ある種の母親的行為のメタファーも読み取れる。それがどう絡んでいくか、もうちょい思索を深めて「いわゆる声豚の方々にとって、声優とは現代の巫女なのでは無いか 2.0」を発表できたらと思います。

 

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