僕として僕は行く。

旧・躁転航路

『ディアスポラ紀行』『在日の耐えられない軽さ』を読んだ。

在日の耐えられない軽さ (中公新書)

在日の耐えられない軽さ (中公新書)

 
 最近、いわゆる『在日』の人々が書いている本というのを読んでみている。というのも、元々の僕の発想として、非常に純粋無垢に「この国でナショナル・アイデンティティに悩むということがあり得るのだろうか」と思ったまま大きくなった節があって、そのままじゃさすがにマズいよな、ということで手始めに読んでみた。
 『ディアスポラ紀行』については、在日韓国人をユダヤ人をはじめとするようなディアスポラと重ねたセルフ・イメージのもと、在日韓国人である筆者・徐京植氏が主にヨーロッパを旅して見てきたディアスポラ達の苦悶の足跡を辿るというもの。それに対し、『在日の耐えられない軽さ』の筆者・鄭大均氏はそのような「在日=一方的な被害者」という図式に対して批判的なスタンスを取る。氏が言うには、そもそも在日の人々が国籍を放棄して日本人になることに対するネガティブなイメージというのは、祖国統一という”青写真”を描き続ける人々が意図的に流し続けたものであり、そこには多分に政治的な意図が用意されているという。また、鄭氏はこの著作の最後のなかで日本国籍を所得し、今までの煩雑な全てから解放されたと結構あっけらかんとした様子で綴っている。
 つまるところ、その「国籍」という部分に関してどれほどまでに思い入れを持つか/執着するか、という所に徐氏と鄭氏のスタンスを分かつ一つの大きなポイントがある。それぞれの上記の著作を読む限りの話ではあるが、鄭氏に関してはある意味ニヒリスト的な、と形容できそうなまでの、熱情や狂騒といったものに対する距離の置き方を感じる一方で、除氏に関してはもはや完全に自らを「政治的なものにより健全な生き方から疎外されたディアスポラ」として規定しており、またこのようなセルフイメージを抱いた人間を鄭氏は舌鋒鋭く批判を加えている。そもそも、鄭氏は、(無論、不本意ながらも、)自分の妹に対して「日本国籍を取れ」とまで言い切る人間ですらある。
 
 韓流ブームというものが生まれて以来、在日朝鮮人/韓国人を取り巻く環境や心境は、良くも悪くも一変したと言えるだろう。ただ今僕が学んだことといえば、彼らのような人々もやはり一人ひとり違う思いを抱いているのであり、それを単純に一枚岩のように想定していた自分の想像力の弱さであるということが一つ、そしてもう一つが、やはり内容的にかなり政治的な意味で複雑な様相を呈している「在日」の生き方について、自分なりの価値判断をそこにしっかりと加えるためには、より体系的に、時系列をおって諸々の出来事を整理していかなければならないということである。