僕として僕は行く。

旧・躁転航路

フィクション

 

某北大生氏とこの人らの違いは、要はフィクションっていう言葉が含みうる範囲の違いでしか無いんだけど、そういうことも全く考慮できない人間が大量にいてのっけから否定されまくってるので、そりゃこんな奴らに囲まれてたら嫌にもなるだろうなという気持ちがする。

 


 

 もう全部どうでもいいわだるいわっていう気持ち、わからない人には多分一生わからないのだろうなという気持ちがする。全部どうもよくなった人でさえも取り込めるフィクションの懐の広さとはみたいなこと最近よく考える。

 

 

 

要は屁理屈やめろって言いたいっぽいんだけど、屁理屈だろうが理屈であってちゃんと反論できないんだったら言う意味ないし、理屈の上では勝ち目ないけど止めさせたいみたいなモチベーションあるなら暴力しかない。理屈はフェイクだけど暴力はフェイクじゃなくてリアルだみたいなこと上のほうの人もいたことだしちょうどいい。

 

 

 

ちなみにフェイクとフィクションを意図的に混同してるのは、僕の感覚で日本語をあてると両方とも「虚構」だからです。ついでに嘘と本当についてちょっと考えた結果思い出したものをいくつか。

永い生涯に於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。−『逆行』 太宰治 

I'm not here
This isn't happening
I'm not here, I'm not here

−『How To Disappear Completely』 Radiohead 

単なる離人感とも言えるし、『健常な』感覚で言えば無責任とかそういうことになるけど、この手の感覚がわからない人はずっと多分わからない。一生、自己効力感という「フィクション」の中で生き続けられることこそ何よりも恵まれているとかいう逆説教かましたい。

 

あとあんまり関係ないけど、数年前に見て全然しっくり来なかった『パルプ・フィクション』は今見たらだいぶ違ったりするのだろうか。