僕として僕は行く。

旧・躁転航路

重心のずれたボール

 今まで本当に純粋な恋心で男女交際のようなものをしたことないのかもしれない。マセガキだったので中学も高校も学年が跨るくらいには長く付き合った彼女がいたけれど、その時だって今思えば、社会のレールにちゃんと乗れている自分みたいなのをどこかで意識していたように思う。イニシエーション的なものをちゃんと通過して、社会の歯車の一つになれている自分に安堵を覚えたかったようなところが無かったかというと、甚だ自信がない。

 なんでそんなことをする必要があったかというと、実は自分が社会のレールから外れそうな側の人間だという自覚が実は既にあったからだと思う。社会という細いレールの上を、一人でちゃんと転がっていくには、僕というボールの重心は中心からズレていた。だからこそ、ちゃんと重心の整ったボールと並走することで、自分もレールの上をまっすぐ走ることができるという自信や確証のようなものが欲しかったのだ。今となっては、それがいかにまやかしなのかもわかるし、もうそんなこと望んでもいないのだけれど。

 そんなことを、「小さな恋のメロディ」という映画を見ていて思いました。あれぐらい、重心がど真ん中にあるカップルだって多分いないのだろうけれど、少し自分と照らし合わせたりしながら。