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旧・躁転航路

「至上の愛 第四章:賛美」〜 Hunter x Hunter 第135話「コノヒ×ト×コノシュンカン」感想と考察〜

※ネタバレ注意

 

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 漫画で何回も何回も読んでたから話はもう熟知している。それでもやっぱり心より感動して、うち震えてしまった。人間ですらない異形の者と、目の見えない人間のラブ・ストーリーは、人間嫌いの冨樫がそれでも愛というものの可能性に賭けてみる挑戦だったのだろうし、そしてそれを描き切ったこの物語は、アニメにしかできない演出の妙で更なる深化を遂げた。

 そもそもメルエムとコムギの出会いの段階において、コムギの目が見えないことは大きな要素だった。囲碁や将棋などのチャンピオンたちは、目が見えてしまう故に、メルエムという異形の対局者を前に、まず本来の実力など出しきれないまま敗北し、そして殺されていった。メルエムにとって、自分に打ち勝てない者など、ゴミ同然であった。そうして順番に様々な娯楽のチャンピオンを倒していったメルエムの前に現れたのが、この全盲の少女だった。彼女は全盲ゆえに、異形の王を前にして怖気づくこともなかったし、また全盲ゆえに軍儀で勝ち続けること以外に人に認められる方法を持たずに育ってきた。具体的にそういった描写があったわけではないが、メルエムにしてもコムギにしても、「戦いの中で勝ち続けること=最も強い者であること」以外にアイデンティティを持ち得ない存在であるから、そういった点で、特にメルエムからコムギへの共感を覚えていったのではないだろうか。

 しかしながら、上のキャプチャからもわかるとおり、二人の最期には、コムギはメルエムの手をとり、膝枕をしてやっている。そう、コムギがメルエムに触れているこの時点で既に、もはや目がみえなくとも、コムギはメルエムが人の形をしていないことをわかっているのだ。しかしそれでも彼女は、ベッドサイドの母親が我が子に言うように告げる。「おやすみなさい、メルエム」。

 キメラ=アント編終盤でくりかえし述べられる、「人と蟻でいったいどこが違うのだろうか」という問い。互いを認め、求め合う心さえあれば、きっとどんな二人/二匹/一人と一匹の間にだって、こんな幸せな時間は生まれうる。たしかに二人の間には生物学的な意味での子孫は望めなかったのだろうが、しかしながら二人の間には、確実に共同作業によって産み落とされた子どもがいた。その名を「狐狐狸固」と言う。この子どもは、一度はメルエムと出会う前のコムギによって産み落とされ、そしてコムギ自身の手によって葬られた。そして次に、コムギとの対局を繰り返すなかでメルエムがもう一度蘇らせて、そしてまたもやコムギの手によって葬られた。二度も我が子を自らの手で殺めたコムギの悲痛はもはや想像の及ばない領域だろう。だからこそ、だろうか。彼女は最期の最期に、もう一度この子を産んだ。しかしながら、今度はもはや、誰もこの子を殺めることができなかった。新たに生まれた狐狐狸固に対し、メルエムは逆新手ですぐさま殺しにかかるが、コムギはそこに逆新手返しで、局面を決定的なものにした。コムギは、三度生まれ変わった我が子(=狐狐狸固)をようやく殺めずに守り抜くことが出来たと同時に、早くも我が子が「父殺し」を行う瞬間を眼前に見ることができた。一人の母として、これほどまでに栄えある瞬間があるだろうか?だからこそ彼女は言ったのだろう。自分がこんなに幸せでいいのかと。自分にこんなに幸せなことがいくつも起きてもいいのだろうか、と。メルエム=「全てを照らす明かり」は、生まれつき光のない少女の人生にさえも、まばゆすぎるばかりの明かりを灯したのだ。

 そして、そのメルエムという名さえも、「自分に名前があるのだから総帥様にも名前があるはずだ」というコムギの別け隔てない心から彼に尋ねたものだったし、そういった彼女の心がメルエムの中に「アイデンティティ」=「自分はいったい何者なのか」という概念を成立せしめたのである。そう、メルエムとコムギは、いわばお互いが完全に補い合う関係にあった。二人/二匹/一人と一匹で過ごした時間は長くはなかったのかもしれないけれど、どんなラブ・ストーリーの二人よりも濃密で圧縮された時間を過ごし、互いを癒やし合い、成長させあった。

 だからこそ、自分と共にいればお前の命も危ういと言うメルエムに対し、コムギは一切の躊躇なく添い遂げる意志を至福のなかに示し、二人の思いは一つになる。自分はこの瞬間のために生まれてきたのだと。自分の一生は、戦いで勝ち続けるためなどでは決してなく、同じ孤独の中に生きてきた者と共に生き、そして死んでいくためだったのだと悟る。こうして二人の物語は幕を閉ざす。

 この物語を更に深化させているのが、アニメ上の演出だ。いつもの幾分か脳天気すぎるオープニングムービーは省略され、コムギの居場所を確かめるためにパームの元へ歩みを進めるメルエムの画のうえに載る最小限のクレジットから物語は開く。これはアニメの最終話の幕開けなどで伝統的に使われてきた手法だが、やはりただならぬ物語が繰り広げられる予兆を感じる。そして物語は進み、まずはコムギの「ワダすはきっとこの日のために生まれて来ますた」、そしてすぐに続いてメルエムの「そうか 余はこの瞬間のために生まれて来たのだ」という台詞からすぐにBGMを引っ張ったままエンディングのスタッフロールに。この回のために用意されたであろうエンドロールのバックアニメは、彼らの出会いから始まり、彼らが過ごした時間が一つずつ回想されていくのだが、それが泡のように丸く繰り抜かれ、次々と上へ上へと流れて消えていく。これはまさに、クロード・アネ原作で、幾度となく映画にもなっている「泡沫(うたかた)の恋」のタイトルにかけたような演出となっており、彼らが過ごした時間の淡さや切なさが一つずつ泡となって消えていく。そうだ、この二人/二匹/一人はもう、死んだのだ。だから彼らの愛の物語は、もうここで終わりで、続きは無いのだと、否が応でも気付かされる。そう思うと何か耐え難い思いが胸にいっぱいになっていよいよやり場がない。もしあの世というものがあるのならば。彼らにはどうしても幸せになっていてほしい。あの世というものがどうか存在していてほしい。フィクションの中だから、きっとそういうものがあったって、おかしくはないはずだ。その可能性に賭けたい。なぜなら、僕はこれより美しい愛の物語を見たことがないのだから。

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 アニメにしても、原作にしても、僕の「HUNTER x HUNTER」はここで終わりでいいと思った。僕にとっての「HUNTER x HUNTER」は、至上の愛を描いた最高の作品として、永遠に残り続けて欲しいからだ。だからこそ、僕はこれから先の人生で行き詰まった時に、今まで感想を述べてきた、彼らの物語の最終話を見なおして、また生きることに賭けようと、決意を改め続けていくのだろう。

 


A Love Supreme, Pt. 4 - Psalm - YouTube