僕として僕は行く。

旧・躁転航路

25

 僕は自嘲して自分のことを「思春期が終わらせられないから」等と形容することがありますが、その意味するところとしては、自分に齎されようとしている変化の、その原因も結果も、はたまたそれがどのような種類の変化なのかさえもはたと理解できず、ただ今までとは何かが違うというフラストレーションだけが確かなものとしてあり続けている現状に、いつまで経っても振り回され続けている、という点なのです。

 そして25才になろうというその少し前からその種のフラストレーションが強く出てきており、先述のような、何なんだこれは一体、という居心地の悪さだけがずっとある。いや、正確を期すのであれば、誕生日の少し前から如実に悪化していった精神状態が、思春期の頃のそれのような困惑を身に纏うものであるということが認識できたのは、浅い眠りから覚めたつい先刻のことで、何か本当に正体不明なもやのようなものだったのが、正体不明ではあるものの過去に参照できる体験を持ち、かつその途中においては対処法を持たないものであるということがわかりかけてきたので、こうやって文章としてしたためることで、自分のなかで整理をしつつ、他方でせっかく誕生日を祝って下さった方に対する僕の不遜な態度を釈明しようとしているわけです。

 

 24歳までの自分と25歳になった自分は何かが決定的に違う。こう書くと、太宰が「パンドラの匣」でたびたび言及していた、新時代を生き抜くための「新しい人間」のようですらあるし、実際のところはもしかするとそういった可能性もあるのかもしれないけれど、でも僕は根本的にはとても臆病者で脆弱な人間だから、僕はもしかするとパンドラの箱を開けてしまったかもしれないという、事実以前であるところの、可能性でしかないものに対してとても怯えていて、今まで大切にしていたものが突然どうでもよくなったりしたことを、事後的に気付く度に、いったい自分に何が起きているんだとそら恐ろしい気持ちになっています。

 こうやって書いていく内に、じゃあ具体的にどういう変化があったのかと考えていくと、それは今までの自分がナイーブ過ぎただけなんじゃないかとか、そんな変化にセンチメンタルを覚えていること自体がバカにナイーブなのかもしれないとかも思いあたったりもしますが、しかしながら火に対する恐怖を克服できなかった猿というのが絶対にいて、だからこそ人間にならずに猿としてあり続けてきた種が今日においても存在しているように、僕は今までナイーブさを克服できずに進化の機会を失った猿だと思って、これからずっとその心積りで生きていくんだと、そんな風な生き方に一抹の矜持のようなものを抱いて、それこそ思春期の延長戦を戦い続けてきたのに、四半世紀が終わり半世紀へと歩み始めた途端に、そんなナイーブさを心の奥底に封印する術を身につけつつあるならば、一体どうやってこれからを生きていけばいいんだと、他人と関わる時に何を忘れてはならないのかと、てんで検討がつかないのです。

 だから僕は本当に変化が怖いので、これからはきっとまた、ブログを書いて、その過程というのをつぶさに見ていくことになるのだと思う。最近はずっと、色々なことを思って、書きかけたことは沢山あるけれど、結局はどれも途中でやめてしまったか、もしくは完成した途端に公開の必要性を急に感じなくなっていちおう保存してあるようなことが多かったけれど、またそういったものをしたためていく必要性があって、そう、その「必要性」、それが無ければ何も書く意味など無くて、だけどいまはそれが強くある、内容如何以上に、その動機というものが、動機というものだけが僕の指を動かさせている。それだけは24歳の頃も25歳となった今も変わってはいない。