僕として僕は行く。

旧・躁転航路

いつもの話

 何となく文章を書きたい気分になったので文章を書く。最近は最近で色々おもうこともあるのだけど実際のところそれをまとめるのが面倒だったりする。それは自分の今の文体に飽きたというのも多分ある。手癖で僕っぽい文章表現がどんどん出てくることに気付いた、それはある種手法が確立したようなもので、そうなると途端に飽きてくる。僕にとってだいたいのものはこんな風にして自分の中で手癖で処理できる段階に来ると飽きてしまう。

 自分にとって演奏したり歌をうたったりというのは一向にそんなふうに手癖でどうこうできる段階にはなってこなくて、いつまで経っても慣れないし下手くそだから、ブチ切れてもうやめてやろうかと思う瞬間も多々ある。でも、手癖にはいつまで経ってもならないから、少なくとも飽きてはこない。ただ、いつまで経ってもどうにもならない、進歩が見えないというのは実際のところ結構しんどい。何かをやめてしまう大きなきっかけの1つだとおもう。しかし、やれることをすべてやり切ったのかと言われるとそうでもない。まだまだやれることがある。ここまで来るともはや固執とか我慢比べとかそういうものに近い。

 音楽に限らず、僕には足りないものが山ほどある。けれど、じゃあそれを一つずつ補うために日々ちゃんとこなせているかというと、全くそういうことはない。そういった努力ができないのなら、自分に足りないものを見つけて劣等感を抱く資格すらない。あの人にはあって自分には無いとただ嘆いているだけの劣等感をルサンチマンとよぶ。そのルサンチマンは、持てるものがただそれを持っているという、それだけの理由で相手に襲いかかり、喉を噛み千切ろうとする怨嗟にすらなる。だから、正しく劣等感を抱いたり、嘆いたりすることは、実際は、持てるものに負けず劣らずの特権階級の人々にしか許されていないのだとおもう。

 話を手癖のところにもどすと、手癖化することの何が嫌かというと、それがルーチンワーク化して、変化が無くなるからだ。僕は同じことを繰り返すのが本当に苦手だ。何がそんなに嫌なのかはわからない。極度の飽き性なのもおそらくは根深く関係している。けれど、持てるもの、いや、それ以前に、嘆く権利のある人になるためにすら、そういった日々のこつこつとした積み重ねをやっていくしかないのだ。

 毎回似たような結びを書いて終わる。それは進歩がないと言ってしまえばそうなのだけれど、もしかしたら自分に言い聞かせておきたいことを思い出すために書くという手段をもちいているのかもしれない。さあ、やれることがまだ山ほどあるだろう。