僕として僕は行く。

旧・躁転航路

カオナシと承認

 

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

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  いきなり「千と千尋の神隠し」見てた。バイトの帰り道、テーマソングの「いつも何度でも」を聞きたくなって、そういや「千と千尋の神隠し」も見たいなと思って見たとか、そういう感じ。あ、言うの遅くなったんですけど、これからネタバレがあります、というか、映画の内容をだいたい知ってる前提で話します。

 映画の内容自体は素晴らしくて、まあでも今さらぼくがどうこう言う必要もないというのはみなさんご存知のところだとは思います。高いエンターテイメント性と、沢山の隠喩による様々なメッセージ性が異様なレベルで両立している稀有な作品だというのは、別に「千と千尋」に限った話じゃないし、まあみなさんご存知のところです。

 

 ただ一点すごく気になる点があって、それがカオナシの件です。僕は、カオナシというキャラクターを、こういう存在だと思ってる。つまり、彼(彼女?)は、自我も居場所もなくて、モノのやりとりを通じてしか他者と交われない、虚しい存在。暗に、今の若者、みたいなことを言いたいのかなと。カオナシはそんな奴なんで、カネやモノになびかず公平無私な千尋に、ある意味で救われて、ある意味で憧れるようにもなるわけです。

 で、なんやかんやあって、カオナシは銭婆のところに留まることになる。なんで銭婆のところかっていうと、銭婆もまた公平無私で、彼に仕事を与えることで居場所を作ってやれるからなんだと思います。昨今巷間を賑わしているような言い方をすると、承認欲求ってやつなんですかね。まあそれを満たしてくれる銭婆のところにいると、自分もなんだか満たされた気分になる、カネやモノを渡さずともちゃんと居場所は作れるんだみたいな感じでハッピーになって、それ以降千尋に執着するのをやめます。

 というわけで、空虚ではあるけれど何かしらの満たされ無さを持て余す現代的な若者はこうやって居場所さえ見つかればハッピーに暮らせるのじゃないでしょうか、というのが、宮﨑駿さんなりの提言なんだと思います。そして、その描写だけが、すなわちカオナシという存在の落とし所がそういったある種の居場所論で片付けられるという発想だけが、「千と千尋の神隠し」という映画の、唯一にして最大の安易な点です。まあ放送が2001年ですから、あの頃はそれでよかったのかもしれない。とはいえ、たった10年やそこらで古びてしまうようなメッセージというのは、まるで宮﨑駿には似つかわしくないのもまた事実です。

 たとえばインターネットを見てみましょう。インターネット上では、しばしば、安易に承認欲求が満たされていく過程というのが公開されています。というのも、インターネットというものを使えば、非常に容易に、自分が「誰か」になることが叶うからです。ですが、はたしてそれで彼/彼女の魂は救われているのでしょうか? ある日ふと気がつくのではないのでしょうか。インターネットの中で「誰か」になれたって、いまここにいる自分は、けっして「誰か」なんかではなく、みすぼらしい「自分」以外の何物でもないということに。

 だから、承認欲求が「容易に」満たされたとしても、それはきっとくすぶり続けるだけなのです。確かにこれは、ニコニコ動画以降のインターネットで徐々に明らかになってきた事実なのかもしれません。ですから、これはニコニコ動画以降のインターネットに多かれ少なかれ触れてきた人にしかわからないことですし、まあこれを世代と言ってしまってもよいのかもしれません。

 そう考えた時に、この承認欲求を巡る無駄なレースは、僕ら以降の世代に特有の問題なのかもしれません。つまり、いかにして、この承認欲求というものを満たし/飼い慣らすか、という点を、我々以降の世代特有の問題と捉えるべきなのかもしれない、ということです。

 ちなみに、ぼくがこの問題の解だと考えているのは現状で二つあります。一つが、諦めるということです。つまりは、自分が何物でもないという厳然たる事実を粛々と受け止め、日々ささやかな幸せのために生きるということです。非常に個人的な倫理観の話になりますが、いま挙げたこのメソッドは、とても「良い」ものだと考えています。そして次に二つ目が、「安易ではない」方法で承認欲求を満たすことです。安易だからこそくすぶり続けてしまう。そうじゃなくて、本当に苦労して手に入れた承認ならば、大切に抱き続けることができるのではないか、と、そういう話です。ちなみに、「安易ではない」とはなにかというと、自分自身に「よく頑張ったな」と言える方法で相応のものを獲得するような方法です。

 まあどちらにせよ、どこで自分に満足するのかという問題です。そもそも、承認が問題になるような人格というのは、不遜で独りよがりなそれであるというのがありますから、そう考えたときに、結局のところ自分に最終的にゴーサインを出してやれるのは自分しかいなくなるだろうと、いまはそういう風に考えています。

 あ、もしくは、承認が問題になるのは、若いからです。年をとれば自然に丸くなるんだとおもいます。そう思わんとやっとれんことも多いです。