僕として僕は行く。

旧・躁転航路

反権威主義的パーソナリティ

 「権威主義的パーソナリティ」っていう言葉があるけれど、僕の性格っていうのは、それに対するあからさまな程の反動としての「反権威主義的パーソナリティ」なのだと思う。

 権威主義的パーソナリティ/反権威主義的パーソナリティっていうのは、そのまま右翼/左翼に対応するわけではない。前者をパターナリスト、後者をマターナリストという風にも言えない。たとえばスターリニストなんかは明らかに権威主義的パーソナリティでありながら左翼でありパターナリストだろう。左巻きのグループの中で内ゲバみたいなことが起こるのも、ヘゲモニーをとりたがる権威主義的パーソナリティの人間が左翼のうちにも多く存在するのに原因を求めることも出来る。「保守/革新」、「権威主義/反権威主義」というマトリックスを作れば図式的に色々なことが整理できそうな気がする。

 あからさまに権威主義的パーソナリティをムンムン出しまくってる人間は論外としても、少なくとも僕が暮らしてきた生活世界には、「隠れ権威主義的パーソナリティ」とでも呼ぶべき人が少なからずいた。要するに、自分自身を含む生活世界のヘゲモニーの奪い合いのなかで、こいつには敵わないと判断した相手を、おだて、媚びへつらうことで、そのお零れに預かるか、ともすると寝首を掻こうとしてくる人間たちのことだ。そうやって、直接的に僕にヘゲモニーを取らせようとしてくる場合もあるし、時には現在のヘゲモニーの担い手を引きずり下ろすために利用してきたりもする。僕は、基本的にはそういったヘゲモニー・レースには乗らないことにしているのだが、その姿勢がすでに、ヘゲモニー・レースの「善良」な選手たちにとっては異物感の塊であるらしく、ヘゲモニー・レースにおける優秀なアスリートとして「称賛」することにより、まずはレースにのせてしまうことで、僕という人間を懐柔しようとしてくる。しかし、そんなレースにのって、もし勝ったとしても、安い承認欲求が満たされるだけで、何も満たされることはない。そしてすぐに次のヘゲモニー・レースがはじまって、より複雑な戦略の飛び交う、困難で努力の要するゲームが必要になる。ちょうど、麻雀ゲームのレーティングをあげていく話と一緒だ。最終的に、こんなことをしても無駄だと気付くだけだろう。「良いスーツが欲しい」が「タワーマンションに住みたい」になり、「タワーマンションに住みたい」が「外車に乗りたい」になっていく。村上某ではないが、これに関しては「やれやれ」としか言い様がない。

 さて、権威主義VS反権威主義的という図式に完全に乗らないというのが、本来的には僕がとるべき戦略なのだろうと思う。要するに、「クラスの中で目立たない」ことが求められているわけだ。本当に強いのはそういった人々で、淡々と、自分自身の生活世界に生きる。そういった人々は、権威主義的パーソナリティの人間の八つ当たりに合ったりはするが、それらを無視していく内に彼らの戦略を無効化し、やがて権威主義者の視界から完全に消える。当然、反権威主義者のように懐柔され担がれることも、はたまた暴力的な疎外を受けることもない。そうすることで、自分のペースというものを完全に守りぬくことができる。ただ、僕は、「自分からは決して殴らないが、一度殴られたら、二度と噛み付いてこれないぐらい殴り返す」というメンタリティが不幸にも涵養されてしまっていて、主体的に、能動的にこのレースに乗ることはなくとも、「おいレースに乗れよ!」なんて言ってくる奴らに対しては、俺にやりたくないことをさせるだけの覚悟があるのか、みたいなことを思って、一時的に参入してしまう羽目になる。いわば、「勝手に例外状態」を作り出すのだ。

 そういったことを考えることが増えた最近、今となれば、就活で自分がうまくいかなかった理由もわかるし、もはやうまくいく気もないのだろうというのがわかる。ビジネスの世界に生きるということは、今まで培ってきた、ヘゲモニー・レースでのノウハウを総動員することと非常に重なり合う。おいレースに乗せてんじゃねえよ、だなんて面接官に言う奴は、じゃあ何しに来たの、としか言いようがない。正確に言うならば、あの頃はまだ、そういったレースには乗れると思っていたのだ。少なくとも、その能力はあると。ただ、問題は、能力ではなく、このメンタリティだった。反権威主義的パーソナリティという、倒錯した一種の権威主義を、自分のなかに認めることが、あの時は出来なかった。上司という視点に立ったとき、自分は確実に扱いにくい。起爆剤になりうるが、ただの爆薬にもなりうる。くわえて、パフォーマンスの不安定さも予想できる。僕が採用側でも、優先順位は決して高くないだろう。それは仕方がない。致命的なのが、そもそもこういった性格を矯正するつもりが全くないところだ。となると、既存のヘゲモニーの舞台ではなく、ヘゲモニーの外側で、かつ自分が満足できる舞台を用意する必要がある。その全容は、全くもって見えていないが、「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」だろう、というのも最近はよく思う。