僕として僕は行く。

旧・躁転航路

失敗

 昨日今日で大きな失敗をしたわけではないし、どういう契機でそうなったのかわからないけれど、ふと自分のしてきた失敗というものを考えていると、本当に多くの、そして本当に大きな失敗を、幾度と無く繰り返してきたものだとおもう。

 人と交わると必ず失敗する。うまく立ちまわっているように見えても、常に薄氷を踏むような思いがしている。そうなると、もはや引きこもったほうがいいと思うこともよくあるけど、そこはおそらくは両親の教育の賜物で、ある期間引きこもり尽くすと、急激に人と交わりたいという衝動が湧いてくるように刷り込まれている。そして失敗する。簡単にいえば、躁と鬱が交互に立ち現れてくる。

 何もかもを拾い尽くして、誰も傷つけることなく生きていくことなんて僕には出来ないというのはとうに分かっている。ただ、本当に自分の傍に必要な人を、大事に大事に思うあまり、かえって遠ざけるようなことはこれまでも幾度と無くしてきた。失敗するのは一瞬だが、後悔は長い。僕はいまだに10年前の後悔を引きずったまま生きているような人間だ。反省して、断ち切ったつもりで、人の前に出て行っても、最終的に根は同じたぐいの失敗をして戻ってくることになる。それでもなぜ僕は最終的に何度でも人と交わろうとするのか。

 死にたいとまでは言わないが、はやく人生から「降り」たい。降りて何をするのかは知らないけれど、何もしなくていいような生活を過ごしたい。ただ泰然として日々を過ごしていくこと、それだけを目的にできるような。でもそんなのは多分一生無理なのかもしれないとも最近はよく思う。なぜかというと、大きな失敗がある度に、もう二度とこんな思いはしたくないということを思うが、回り回って結局は同種の失敗をする羽目になってきたからだ。だから、死のその瞬間まで、僕は失敗し、あまりに統制のきかない人生だったと思うのだろう。

 10月になった。10月もまたどんな失敗をおかすのだろう。それすら楽しめるようになれば、僕の毎日はもっと面白くなるような気がする。