僕として僕は行く。

旧・躁転航路

人間と機械

 そういえば「Ghost in the shell 攻殻機動隊」を観た。押井守の映画、じっくりとみるのは初めてだったけど、あんまり好きじゃない感じだった。ブレードランナーのオマージュなのはよくわかったけどなんかそれだけであと絵が綺麗なだけな感じだった。女性の趣味みたいなのは、宮崎駿周辺の人間の割にはストレートで、それはまあ受け入れやすかったけど、同時に思ったのが、宮崎駿にしても富野由悠季にしてもあのロリコン趣味がやっぱ強烈なフックになってて、彼らの作品は、ロリコンの人が見ると歓喜だし、ロリコンじゃない人が見ると異物感というか違和感みたいなのが残って記憶に留まるから、どっちにせよ強いんだと思う。押井守の女性趣味は、その点、まだ健全だから、そこまで記憶に留まりづらい。少女に性的興奮を抱くよりは綺麗なパツキンのチャンネーにしか見えないロボットに性的興奮を抱くほうが容易だと思う。

 自分が人間なのか機械なのか、みたいな、哲学的な問いかけみたいなのは、なんかよくわからんけど随分前からあって、でも果たしてそれが問題としてどれだけ重要なのかっていうのがあんまりわからない、実際、僕自身が人間であろうと機械であろうとどっちでもいいと思うし、大差ないと思う。同様の感じで、この世界は実際は仮想世界でとか、パラレルワールドの一つで、もしくは誰かの見ている夢の中で、みたいなのも、全然意味がわからなくて、仮想世界であろうと、パラレルワールドであろうと、夢の中であろうと、その中に存在している僕が今みている、この世界に現存する苦しみとかそういったものが無くなるわけじゃない。あと、自分以外がみんな機械かもしれないとかいうのもあるけど、それも同様の理由であんまり好きじゃない。機械だから何という気持ちになる。人間を相手するのも機械を相手するのも、結局のところマネージメントがうまくないと、うまくいかないから、別に大差ないと思う。人間にしか通用しないメソッド、機械にしか通用しないメソッドそれぞれは確かに分けられるけど、結局、現代に生きていると、人間だけを相手にしたり、機械だけを相手にしたりということはなくて、機械を操る人間を相手にしたりとか、人間に働きかけるために機械の相手をしないといけなかったりとかするわけで、要は既にある種の混淆状態にあるから、それが、人間と機械の中間みたいなのが存在したとしてもそこまで大きな問題じゃないと思う。たしかに、じゃあ人間と同様に活動するロボットの権利義務のあたりはどうするんだとかいうと、ふむ、という具合にはなるけど、意地悪して権利義務を発生させない理由も特になくて、人間と同様に活動できるなら扱いも人間と同様でいいと思う。でもたぶん、もしそういう未来がきたら、人種問題みたくなると思う。人間、何万回も同じこと繰り返してて、学習意欲低いから、またロボットが公民権運動みたいなことしないといけなくなる。そういうプロセスが面倒くさい、人間が、一般的に自律的な判断ができるとされる成人の頃に選挙権が与えられるように、ロボットも自律能力があれば与えてしまえばいいと思うけど、物事を単純に考え過ぎって怒られそうな気がする。

 人間と機械が鋭く対立する、っていうの、結局のところ、人間と自然が対立してるみたいな、よくいわれる旧来のヨーロッパ的(なるものがあるらしい)な二項対立の図式と大差ない気がする。要は、人間と、その外部環境は、緊張関係にある、みたいな話だけど、人間が生み出さなきゃ機械は存在しないし、自然がなければ人間は存在しないから、なんか前後不覚っぽい感じの議論にしかならくて、あんまり実りある感じにはならないと思う。人間とも機械とも言い切れない存在がここにいるぞ!!みたいなのが焦点になると考えてる人々は、そもそものところ人間と機械が元々は相容れないものなはずなのに!っていうのがある。でも別に相容れないことはないと思う。押井守も、別に相容れないことはないと思うって考えてると思うけど、ヨーロッパの皆さんを含むあなた方は相容れないと思ってるでしょう?っていう態度が鼻につく。別にそんなことはない。けど、Ghost in the shellがアメリカで大ウケしたあたり、そういう押井守の態度はおそらくは戦略的には正解だったんだと思う。