僕として僕は行く。

旧・躁転航路

ただひたすらに音楽を聞くことが好きならば、音楽を創らないほうがいいのかもしれない。

 音楽を聞くことを通じて忘我を経験することを楽しみにしているような人は特に、音楽を創ったりしないほうがいいのかもしれない。音楽を創るようになると、音楽の聞き方が変質してきて、どうしても分析的になる。そこでどういう風に分析するかっていうのは多分人それぞれで、それによって、音楽のどういった部分が好きなのかが別れたり、作曲方法が別れたりするのだと思う。ちなみに僕は自分の音感については諦めていて、曲の展開、アレンジとか音色とかそういった面に注目しながら聞くことが多い。

 変な話だけど、人の作った音楽はそうやって分析的に聞くようになるけど、僕の場合は、自分の作った音楽に対しては耽溺できるように、最近はなってきたように思う。それはなぜかというと、分析もクソも、これを作ったのは自分だから、何がどういう風に鳴っているのかというのは把握できているから分析なんて不要で、むしろ、それを作った人として聞くよりは、リスナーとしてどういう風に聞こえるのか、という風に興味を移したほうが、自分の楽曲に対して多面的な見方ができると思うからなんだろう。

 音楽制作者が薬物の類が好きなのは、音楽を創るうちに取り戻せなくなっていった、音楽を通じた、シンプルな忘我の感覚を、感覚器のドーピングを行うことで取り戻そうとする営為なのかもしれない。

 さて、音階を中心にした音楽、というと、まあ大抵の音楽はそうだろという話なんだけど、そういった大抵の音楽は、分析的な感じで対応してしまうようになるけれど、そうじゃない音楽、無調音楽だったり、ノイズをベースにした音楽とかは、これはまた分析もクソもない。ノイズは少なくとも今の語彙ではあまり分析的に捉えることはできない。これをこう加工したらこういうノイズができました、というぐらいの話はできるが、ただそれだけだ。パロメーターをいじってたらこういうノイズが出来たので中心に据えてみました、という、なんというか、音感とかリズム感とかいった音楽家的な感性というよりは、素材選びと加工の度合いの調和点を見つけ出すような感覚が必要になる。無調音楽については、僕はあまり詳しくないけれど、無調というよりは、十二平均律を越えていこうとする試み、たとえば微分音とかには、非常に興味を引かれている。

 そもそも、音楽を創りたいと思いだしたのはなぜか、というと、それは人それぞれあるだろうけど、僕の場合は、僕が創るならこういう音楽だろうな、こういう音楽なら自分の気分に完全に合うだろうな、というのが無かったというのがある。こういう言葉をこういう音楽にのせて歌うバンドがいればいいのに、と思って、でもいないから、じゃあやってみるか、となる。そういう風にはならない人もおそらくは多いだろう。また、人によっては、こういうBPMでこういう音楽を繋いでいくDJがいればいいのに、と思ってDJになったりもするのだろう。ただ、どうあるにせよ、自分にとって理想的な音楽表現がまだ存在しないな、あれば絶対に良いのに、と思ってしまった時点で、僕らはもはや単なるリスナーに戻ることはできなくなってしまう。それを世に問うか否かは、また別問題だが、少なくとも世に問いたいと思っているところでは、僕はまだこの社会や世間というものに対する希望や憧憬を捨て去ることができないままでいるのだろう。

 


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