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旧・躁転航路

「美」と「夢」と「支える人」〜映画『風立ちぬ』雑感〜

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宮崎駿監督『風立ちぬ』を観た。僕は、これを『夢』の映画なのだと思った。『夢』といえば、とてもポジティブな言葉のようなイメージがある。きらきらしていて、一生懸命で、果てしなくて、それを実現することは、手放しに素晴らしいことなんだという共通理解があるように思う。けれど、近頃、僕は、そんな『夢』に対するイメージは、ある意味正しくないか、少なくともかなり偏った、一面的なものである気がしている。本当は、『夢』というものは、とてもグロテスクなものなのじゃないか。その思いは、『風立ちぬ』で確信となった。

 

たとえば、ポル・ポトの見た夢は、人々にとっての、地獄だった。無論、それは極端な例だ。けれど、堀越二郎の見た夢はどうだったのだろう?ただひたすらに、『美しい飛行機をつくる』ことを夢見続けた青年の生き方。彼はその夢以外の何物にも興味を示さなかった。もっと言えば、彼は飛行機を通じて『美』を体現することにしか興味を示さなかった。

 

東京帝国大学の学生だった時の堀越二郎は、イワシ定食しか食べなかった。彼は『イワシの骨』の曲線美を好むからである。これは、「花より団子」ならぬ、「団子より花」である堀越二郎の偏執狂的な側面を照らしだすエピソードだろう。おいしさよりも、栄養よりも、美を、ただ美だけを、ひたすら追い求める彼のパラノイアックな在り方。その後、劇中で幾度となく『イワシの骨』に対する言及が為されることからも、一つのキーアイテムであることは間違いない。

 

そして、堀越二郎の同期に、本庄という人物がいる。イワシ定食しか食べない堀越二郎に「肉も食べろ」と言う辺り、二郎とは対照的なキャラクターとして描き出されている。この2人の対照性は、結婚というものの捉え方にも表現されている。本庄は、ある日、「そろそろ本腰をすえて仕事にとりかかるために」妻をもらう。それに比して二郎は、避暑先で再会した見目麗しき令嬢・菜穂子と結婚する。彼女は重度の結核患者であり、少なくとも、この時代に求められたであろう一般的な妻としての『機能』は十分ではない。それでも堀越二郎にとっては十分、いや十二分なのだ。なぜなら、彼は『美』にしか興味がないからだ。堀越二郎は、菜穂子を褒めるときに、ひたすらに『綺麗だ』と言う。いや、おそらくそれしか言っていない。二郎は、菜穂子の『美』にしか興味が無い。つまり、本庄は、機能的な家庭という基盤をつくるために、そして二郎は、ただその美しさのために、妻をとった、ということになるだろう。リアリストとしての本庄、アーティストとしての二郎の対照性が明確になっている。

 

無論、二郎が自分の表面性だけをひたすらに愛していることに菜穂子も気付いていた。だからこそ、菜穂子は自分のすべてを見て欲しくて、何度も何度も二郎に挑んだ。それでも、彼女の『夢』は叶わなかった。だから、彼の『夢』の実現こそを自らの『夢』であるということにしたのだろう。そして彼の『夢』である「ゼロ戦」の設計完了を以って、彼女はサナトリウムへと帰っていったのだ。菜穂子は、最後まで『イワシの骨』でしかなかった。二郎は彼女を栄養としてではなく、美しいものとしてそばに置いておきたかっただけなのかもしれない。

 

これだけ見れば、二郎はただひたすらに自分勝手な奴に思えるかもしれない。けれど、夢を見る青年というのは、そういうものなのかもしれない。しかも、彼は、もはや、夢を追い続けることでしかあの時代を生き抜くことが出来なかったのだ。二郎は会社を利用していたが、会社もまた二郎を利用していて、会社にとっての利用価値がある内には二郎を守り続けるという宣言をしていた。つまり、会社にとっての利用価値がなくなれば、二郎の身の安全は保証できないということでもある。ナチスドイツの飛行機設計者が国を追われているときに、堀越二郎もまた特別高等警察によって追われていた。2人とも、美しい飛行機に機関銃も弾薬庫も要らないと考えていたからなのだろう。ただ美しいだけのものに、必要以上の機能性などは要らない。堀越二郎が、身内だけの技術会議のようなもので、「機関銃がなかったらもっと速く飛べるのですが」と言って笑いをとっていたのは、何も冗談ではない。彼は心からそういったことを思うたちの人間なのであり、それを冗談として受け止めた周囲との距離がここで決定的に明らかに描かれている。

 

かくして、革新的な零式艦上戦闘機が完成する。戦争がはじまり、そして終わる。その描写は驚くほどに簡素だ。二郎の中に葛藤などは一切無い。飛行機設計者になるという夢と、その夢が戦争に利用される青年の心の葛藤が描かれた映画なのだと僕は思っていたから、とてもびっくりしたのを覚えている。夢は、時として利用される。しかし、二郎にとっては、そんなことは関係ないのだろう。ゼロ戦の瓦礫をかきわけ、「1機も帰って来なかった」とカプローニに嘆く姿こそあれ、自分のやったことの大きさを悔いる様子などはどこにも描かれていなかった。そしてカプローニは、ここで君を待ち続ける人がいるんだといって、草原に立つ菜穂子を指差す。その菜穂子は、二郎が姿を認めた途端、消えてしまう。さすがにここで二郎は謝罪の言葉ぐらい述べるだろうと思ったが、それすら裏切られる。彼はただ涙を流しながら、「ありがとう」と言うだけなのだ。もはや、彼には善悪や仁義、礼節といった倫理的な概念軸は決定的に欠落しているのだろう。彼は、美醜という評価軸しか持ち得ていない。

 

夢をひたすらに追いかけること。それは本当に美しいことなのだろうか。沢山の人々の思惑と、献身的なサポートを、そこにある「思い」を看過しながら、ある種、利用していく。その図太さが無ければならないのかもしれない。それは、夢を実現する上での意志の強さという風に捉えられているのかもしれないが。そして、そんな「強さ」に加え、夢を実現するのには並々ならぬ努力と、才能と、運とが必要になる。しかも、本当に運良く夢を実現させたところで、「1機のゼロ戦も帰ってこない」、すなわち何も手元に残らないということはあるだろう。夢は、夢見ている時が一番美しいのかもしれない。夢を夢見ているその時の美しさと、夢そのものが持つ美しさとを混同してはならない。光は、眩しければ眩しいほど、大きな影を作る。

 

僕にも夢がある。ただ、その夢を叶えさえすれば救われるという思いは、どうも捨てなければならないようだ。僕の夢も、うまく行ったとしても、きっと沢山の人を利用し、また利用されていくのだろう。僕は、誰かを傷つけることだけは絶対にしたくない。でも、夢は叶えたい。安易な夢なら見ないほうがいい。飛行機の夢は沢山の街を焼き沢山の人を殺したのだろう。僕はそれに耐えられるか。夢見る人々よ、誰かを傷つける覚悟はあるか。夢を夢見る人々よ、夢見る人々に傷つけられる覚悟はあるか。宮崎駿は、こう問いたいのだと、僕は感じた。