僕として僕は行く。

旧・躁転航路

金原ひとみ

 ネットサーフィンをしていたら、金原ひとみの「マザーズ」の良い書評と、そして彼女の受賞の言葉が載っているページを見つけた。一部の例外を除いて僕の周囲ではあまりウケがよくない金原ひとみだが、それでも僕はやはり金原ひとみの書く小説が大好きだ。それは転じて、彼女の見ている世界がとても好きだということになる。

 

今、言葉の通じない国で右も左も分からないまま、私は一人で子供たちを育てている。この子が歩けるようになるとは思えない、と泣きわめく赤子を抱え途方に暮れて一緒に泣いていた、あの時の私の絶望に偽りはない。でもその長女は今、キックボードで走り回り、次女の世話を手伝い、私が泣いているとティッシュを持って来てくれる。今も育児できりきり舞いだが、育児というものに絶望することはなくなった。私は身を以て知っている。絶望は有限だ。あの時々の絶望が「マザーズ」という小説に潜り込み一つの形となってから、私はその絶望を血肉とし受け入れることが出来たように、砕け散った世界はまたいつか、小説の中で世界の体をなすだろう。(前掲より)


 彼女の作品に、なぜこれほどまでに僕は惹かれ続けるのか。その答えの一つが、おそらくは、ここに繰り返し現れる「絶望」という言葉の中にある。どうしようもなく悲観的な僕らは、もう望みなどどこにもないのだとすぐに思いこみ、落ち込み、気が狂いそうな思いをしながら日々を過ごしてゆく。その中でも、わずかに見える希望の光に寄りすがりながら、今日という日を、どうにかこうにか乗り越えてゆく。そして乗り越えた先に、昨日と代わり映えのしない今日がまた来ることにすら絶望しながら、どうにかこの絶望の連鎖を断ち切る方法はないのかと藻掻きながらも生きている。

 冷静に、客観的に考えれば、僕らの日常なんてそれほどまでに悲観すべきものではなくて、少なくとも明日もうどうしようもなくて死ぬしかないということはない。けれども、どうしても絶望しながらではないと生きてゆけない人種がいる。そういった性質は、もはや変えようのない、そう、まさに一つのセクシュアリティのように、個人のなかに厳然とそびえ立っている。そして、このセクシュアリティをもった人種のなかで、最も鋭敏な感性をもった1人が、今では2児の母となったこ作家である。

 ロッキング・オンのライターである山崎洋一郎は、かつて、The SmithsのMeat is Murderというアルバムのライナーノーツで、「それでも、この袋小路にある絶望だけは、僕と共にあるのだ」ということを書いた。そう、絶望する人種が見いだせる希望というのは、ただ、絶望だけは共にここにいてくれるということでしかなかったのだ。しかし、金原ひとみは、異国での子育てを通じて、とうとう「絶望は有限だ」と言い放った。唯一の友人であり続けた絶望ですらいつかは僕らのもとを去って行くことを彼女は知ったのだ。

 

自分の書いた小説を、書いて良かったと思える。それ以上に幸せなことはこの世にないと思った。その瞬間、私は幸福の形を一つ思い出すことが出来た。 (前掲)

 

そして私はトイレのドアを開け、子供たちを幼稚園と保育園に送り届け、買い物や家事を済ませ、今日の夕飯を考え、四時にはお迎えに行き、公園に連れて行き、夕飯を作り食べさせ風呂に入れ寝かしつける。何も考える事なく脳死状態で過ごす一日もあれば、考えが駆け巡り、止まらない不安に怯える一日もある。夫を想って泣く夜もあれば、寝坊してベビーカーを押しながら走る朝もある。過ぎ去る一日一日の中で、幸せになれることを祈る。幸福も絶望も全て瞬間の中にある。それは悲しく儚い事実だが、同時に激しく刹那的で美しい。 (前掲)

 
 有限である絶望はとどまり続けるものはなく去来するもので、やってきた絶望を追い返すのは、ふいに訪れる幸福であって、幸福もまた去来するものでありながら、この世は決して絶望だけが共にある袋小路ではないということを知る。そして、今の彼女にとって、その絶望を追いやる幸福とは、産みだしてよかったと思える小説の存在であり、また子どもの成長であるのだろう。そして、こういって差し支えなければ、それはまさに、彼女が「母」としての一面を得たことによるものなのかもしれない。

 

 

マザーズ

マザーズ