僕として僕は行く。

旧・躁転航路

簡単に人は救えません

 もしかすると自分はこの人を救えるかもしれないとか、まあ救えるだなんて傲慢なんだけど、この人の人生を少しはラクに、楽しいものに出来るかもしれないとか思うことがあるけれど、そもそもそういう発想こそが傲慢なのかもしれないし、そんなに気楽に出来るものでもない、とさいきんよく思う。ペットを飼うような感覚で人に近づいてはいけない。そういう風にしてその人と打ち解けて仲良くなることは簡単なんだけど、動機が不順というか、目的がある人間づきあいだからどっかで頭打ちする。そういう関係はそもそもの基礎構造が依存関係だからサイアクな感じのやつになる。救いようがない感じになって2人ともズタボロ雑巾みたいな感じになって終わる。かといって相手の自立を促すみたいなのもてめえ何様のつもりだみたいな気分になるので向いてない。
 自立したオトナの関係、みたいなのも嘘くせえと思ってるけど、お互いが乳幼児のように相手がいないと不安で不安で仕方がないみたいなやつは、まあ全く嘘くさくはないけれど、サイアクな感じになる。

 本当に、本当に多くの人の手助けによっていまの僕があることは否定しようのない事実だけれども、でも結局のところ自分を救えるのは自分自身しかいないと思って生きている。という話を友人にしたとき、それが出来るのはキミが強いからだよと言われた。むむむ、自分自身のことを最弱だと思って生きてきたけれど、もし僕が最弱でないなら、色々考えなおす必要がある。自分が弱者だと思っている実質的な強者ほど面倒な人間はいない。

 

 こういうふうな話を、2,3人の登場人物によって表現できるようになれば、いろいろと出来ることが広がるかもしれないと常々思っているが、それに取り組む体力がない。いまも鼻水が永久に出る状態になっている。明日は梅田にいきたい。