僕として僕は行く。

旧・躁転航路

文章が書ける

 文章が書ける、というのがいまいちどういうことなのかわからない。だから、僕はこのブログにしても大学のレポートなんかにしても、ちゃんと文章が書けてるかどうか、客観的に分析できないままで提出していることになるんだけど、特にこれといった問題がこれまでに報告されたわけではないので、一応は書けているのだろうとおもう。だけど、それは「最低限書けている」という評価から「たいへんよく書けている」という範囲内に僕の文章がおさまっていることを示しているに過ぎないので、実際はその範囲内のどこにいるか、細かいところがよくわからない。

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 たとえば、50mを何秒で走られたら足が速い、リフティングが何回できたらボールのコントロールがうまい、というのはなんとなく想像がつく。定量化できるからだ。では、文章の「ちゃんと書け具合」もそのように定量化できるのだろうか。たぶん無理な気がする。文章のよさっていうのは、文章の長さとか、なんかそういう安易に定量化できる要素によっては決まってはいないと思うけど、そもそも文章のよさっていうのがどうやって決まるのか、僕にはよくわかっていない。でも、なんかその文章のよさみたいなのがわかる人々にとっては、その文章のよさとやらが最低限あれば、「ちゃんと書けている」という状態なのかもしれない。けどどうなんだろ、実際のところ、「文章のよさ」とやらのこと別にわかってなくていい気がする、なんとなく良いと感じるものを読んで、取り入れていけば、なんか良い感じの文章は書けるようになってるんじゃないかと思うし、別になんか良い感じじゃない文章しか公開してはいけないとかいうこともないし。

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 僕にありがちなことで、ある特定のジャンルにおいて、好きなものはどういうもの、と聞かれたら答えに窮するんだけど、嫌いなものはどういうもの、と聞かれたら簡単に答えられるような場合がある。で、僕は、好きな文章はどういうもの、と聞かれたら答えに窮するんだけど、嫌いな文章はどういうもの、といま自分に尋ねてみたら色々出てきたので結構びっくりした、それをつらつらと連ねていくとなんだか悪口ブログみたいなのはやめにしておきますが。ただ、形式としてはちゃんと書けていて、なんとなくこういうことが言いたいんだろうなーとかいう意図がわかったとしても、クソッタレでイライラする文章はけっこう存在しているので、表面上きっちり書けてるとかそういうことよりも、文章の中身とか過剰なアピ〜ルで人をイライラさせないこととかそういったことに気を配れる人こそを僕は文章が書ける人と呼びたい。