僕として僕は行く。

旧・躁転航路

ナショナリズムについて思ったこと:覚書

 『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿著)を電子書籍アプリ:Kinoppyで購入し読みました。この本の射程は本当に広くて、モンキー・D・ルフィからベネディクト・アンダーソンまで本当に色んな人が出てくるのだけれど、そのアンダーソンの、古市氏流の解釈というのが個人的には結構面白かった。「想像の共同体」ってよく聞くけど、一体何なの?なんて聞かれた際には、彼にならって説明するとわかりよさそうだ。
 さて、一応言っておくと、僕は断じてナショナリストではない。昔はもうちょい、ナショナリストとまでは行かないでも、保守主義者のような側面はあって、この国を良くするにはどうしたらいいかということにも興味はあったのだけれど、今はもうそれすらほとんどない(こういったナショナリズムに対するスタンスは僕と古市氏は割と近しいものがある)。そして、さらにそのもっと昔には、割とナショナリズムのようなものに突き動かされていた時期もあったにはある。
 ただ僕がそれを断念したのは、端的に言って戦争に行きたくないないからだ。こう書くと平和主義者っぽいが、特にそんなピースピースイェーイみたいなことを考えているわけではなくて、僕と実際に付き合いのある人は想像がつくかもしれないが、割と怒りっぽいほうだし、それを隠せないタイプでもある。じゃあ何で戦争が嫌かというと、殺すのが嫌だというよりは、むしろ殺されるのが嫌なのである。あと軍隊式な規律訓練みたいなのが死ぬほど嫌いなのだ。殺されたりすると、やり返せないし、あと上官とかにもやり返すと面倒なことになる。そういうシステムになってるのがムカつくのである。あと、もっと視点を広げれば、自分の子どもが誰かを殺したりとかもしくは誰かに殺されたりしているところを想像すると非常に胸糞が悪くなるし、よくよく考えると戦争の相手もみんな誰かの子どもなんだから親の気持ちに勝手になると辛い感じになる。
 僕みたいな理由をもって戦争が嫌だっていう人も、まあ多かれ少なかれいると思う。そして、それは何も今だけじゃなくて、20世紀のあの戦争の時にだっていたはずだ。しかしそれじゃ国民皆兵みたいなことが実現しない。一枚岩になって戦えない。そこで編み出されたのが、想像の共同体の、神話的機能の部分であったり、国語であったりするわけだ。物語を偽造して、その物語の系譜の、それもクライマックスに貴方はいる!と煽ることで、よっしゃじゃあやったる!となる人というのは少なからず、というかかなりいるらしい。
 僕にはそれが本当に理解できない。なぜフィクションなどのために命を捨てなければいけないのか(無論、当事者たちはフィクションだとは思ってないし、これが事実だと教わってはいるわけだが)。そしてそのフィクションが、統治者が動員効率を上げるために作り上げたもので、いわば目的合理性で価値合理性を覆い隠すようなものであれば、なおさらである。僕は基本的に僕より偉そうなものが嫌いだ。根拠がないからだ。僕は別にそいつらを承認した覚えはない。
 しかしながら、昨今の排外デモで先陣を切るような人間たちにとっては、おそらくは、国家というものが神話であろうが無かろうが、おそらく大差のないことなのだろう。つまりだ。僕はフィクションのために命を擲つなんてナンセンスの極みだと思っているけれど、彼らにとってはそれこそが魂が燃えるような何かなのかもしれない、ということに気付いたのだ。だからだ。国家なんてフィクションっすよwとか彼らに語りかけても無駄なのであって、彼らをハッとさせられるような警句とは決してなり得ないのだろう。そもそも、そのような自己批判性のようなものがあれば、排外主義者などにはならなかったのだろうし。
 というわけで、その辺りのことがよくわからなくなってきているので、24日には、【チェック!】3.24大阪・御堂筋での排外デモへの反対の意思表示に行く前に! - Togetterに行って来たいと思います。がんばって起きましょう、自分。