僕として僕は行く。

旧・躁転航路

始原(アルケー)などに関するメモ

  • 物語は、始原(アルケー)を起点とし、現在・そして場合によっては終局までを描く。ここで注目すべきなのは、始原から物語がスタートするのではなく、現在から遡及して始原が生成されるという点である。つまり、始原は、物語上ではすべての起点ではあるが、それは常に事後的に、物語が生成するところのものとしか存在し得ない。あらゆる変化(差異化)は、その性質上、過程があらわになるものではないからだ。「経済問題は、常に結果として現れる」のである。
  • 物語には終局がある場合とない場合がある。カタルシスが最後に訪れ、その恍惚のなかに終わるのがある種の終末論であり、またミステリー的=テレビゲーム的な物語である。
  • ところで、我々はいつから物語には『オチ』がつかなければならないと信じ込むに至ったか。これはいささか興味深く思えるが、実際のところ、このような問いの立て方こそ、まさに「始原を捏造する」という行為に他ならない。そしてあえて始原を捏造するのであれば、やはりまず第一に浮かぶのがテレビゲームという物語フォーマットの爆発的流行である。事実、1970年代から、カタルシスとともに終局を迎える小説が爆発的に増大している。従来、小説のカタルシスの位置取りは、より自由であったし、また、カタルシスを迎えないものも多く存在していた。
  • このようなコンテクストを考慮した上で、宮台の言う『終わりなき日常』とは、一体どういう意味だろうか。まず、『終わりなき』の部分が意味するのは、まさに『オチのつかない』ことを意味している。我々の日々は、どんな破局的事態が訪れようと、人類自体というものが存続する限りにおいてはまさに『終わることがない』*1。次に『日常 』とはなにか。これは、『非・物語』を意味していると捉えられる。一冊の本にまとめられる筋書きなどなく、当たり前のように矛盾し、散種し、そして物語のような『始原』をもたないこの日々こそ、まさに『日常』に他ならない。
  • こういった状況をして『フラット』であると形容する人々がいるが、そのメタファーが正しいものなのかどうかには議論の余地が多分にあるように思う。『フラット』は平らであることを意味しているが、はたして我々の日常は本当に平らだと言うに即しているだろうか?
  • 始原の捏造が決定的になるのは、おそらくは『名付け』の瞬間だろう。

*1:もしかすると、人類が滅んでも、地球が滅んでも、銀河が、宇宙が滅んでも『終わり』などないのかもしれない。なぜなら、始まってもいないのだから。