僕として僕は行く。

旧・躁転航路

アクシス

 「モモの物語」という小説で、イブラヒムという老人が、普通の男たちの美しさというのは、相手の女性の美しさの中にあるという趣旨のことを言う、これは全くもってその通りで、それ自身美しくないものがせめて美しくあるためには美しいものを自分は選び抜けるのだという感性によってでしかない。それゆえに、それ自体美しいものは強い、なぜならばそれ自体美しいものが更に美しいものを選び取る感性までも身につけてしまえば、もはや普通の人間には決して見えない風景だけが見えるようになる、これを我々は決して追体験できない。可愛いは作れても美しいは作れないのだ。

 「モモの物語」自体は全体としてよく出来た小説で、これがドイツやフランスで飛ぶように売れたというのも納得のいく話だ。深刻に描こうと思えばいくらでもできる物語をポジティブにまとめるために作者が非常に腐心しているのを感じる、それもこれも、おそらくはイブラヒムというキャラクターの温和な性質をこの物語の中軸に起きたかったからだろう。もしくは、村上春樹ならば、ダンスのシーンを神話じみたものにしたに違いない、このダンスのシーンというのは、イスラム教のある宗派がやるダンスについてのもので、それは忘我のためのダンスであり、自分自身を軸にして回転することで神を身に宿らせ、怒りを発散させるという。

 そうだ、思えば「軸」なのだ。問題は軸なのである。部活を引退して以来、踏み込んでボールを蹴る時の僕の体軸は傾き歪んでしまった。そのため、キックはボール2個から3個分狙いからズレてしまう。インパクトの瞬間に体に走る衝撃も均等ではなく不快感が残る。歪みは偏りを生みそして不快感を作り出す。生き物の身体は不均等で健康を害するよう設計されている。エヴァンゲリオンの世界における日本が、地軸が歪んだことにより常夏の国となってしまっているのは象徴性として非常に良い点をついている。「変われば変わるほど変わらない」という斎藤環の好む言葉が示すような、めまぐるしく形を変えていくものとして固定されていたはずの日本の四季は、「軸」のずれにより過剰を再生産し続ける「変わらないもの」になってしまった。ただ、再帰性と恒常性などという話をしたいわけではないから、この話をこれ以上続けるわけにはいかない。ただ僕が言いたかったのは、軸のずれた世界が機能するのは、消費者として物語にコミットしている限りにおいてであって、実際に当事者として自分の軸がずれてしまうと僕たちはたちまちダメになるということだ。軸がズレると僕らは十分に回転できず、怒りやインパクトをうまく体から解き放つことが出来なくなる。世界はずっと夏になり、変わることが出来なくなる。それでも僕は、歪んだこの軸とともに生きていくしかないのである。