僕として僕は行く。

旧・躁転航路

幸福な似顔絵

 リビングシェルフの一角には、二年前に式場紹介所で無料で描いてもらった俺と妻の似顔絵が飾ってある。俺の笑顔は本当はもう少し引きつっているものだと思うが、似顔絵のなかの俺は自然な笑顔へと上手く描き変えられている。もちろん、上手く笑えないからといって、楽しくないわけではない。あの式場紹介所に二人で訪れた時も、俺は上手く笑えてはいなかったかもしれないが、多少の気恥ずかしさこそあったものの、確かに幸せな気持ちでいっぱいだった。無論、そこで決めた結婚式も、そして新婚旅行も、新居での生活も、何もかもが楽しく、幸福な時間だった。

 その気持ちは今でも変わっていないのだと思う。ただ、今日のように妻が仕事に行き、俺が休みの日に、一人で昼前に起きてきてあのリビングシェルフの似顔絵を見ると、手の届かないところのかゆみのような不快感を覚えることがある。そしてすぐに、ふと、俺は何をしているのだ、という思いが降りかかってくる。俺は、もしかすると、誰かが筋書きを書いた幸福という名の物語を準えて、そのアクターとして脚本通りに振舞っているだけなのではないか。理由もわからず、ただ気付いた時には、この筋書きの中に放り込まれていたのだ。だとすれば。俺の幸福な毎日なんてものは、一つのフィクションに過ぎないのではないだろうか。

 フィクションじゃない、本当の幸福とは一体何なのだろう。妻も、こんなむず痒さに手をこまねくことがあるのだろうか。もし俺だけがこうなのだとすれば、俺は、幸福を疑っていることなり、そしてそれは、彼女を愛していないことにもなるのだろうか。俺が幸福な時間だと思っていた時間は、一体何だったのか。そう考えていると、何もかもが足元から崩れ去るような思いになる。何が確かなものなのか、何が作られたものなのか。こんな思いを、誰に打ち明ければいいのだろうか。結局、俺はどこまでも孤独でしかありえないのだろうか。