僕として僕は行く。

旧・躁転航路

情報とやらについて

 SNSとか見てると、有用なものから無意味なもの、更には日常会話などとみな熱心に言語情報のやり取りをしているのだけれど、果たしてそれにどれほどの意味があるのか、と考えていると疑問符がつくように思う。っていうか、そもそも情報とは、いったい何なのだ。そこからよくわかっていない気がしたので調べた。

 

 ある物事の内容や事情についての知らせ。インフォメーション。「事件についての―を得る」「―を流す」「―を交換する」「―がもれる」「極秘―」
 文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手に状況に対する知識や適切な判断を生じさせるもの。「―時代」
 生体系が働くための指令や信号。神経系の神経情報、内分泌系のホルモン情報、遺伝情報など。
 

とのことだが。つまるところ、「情報」についての「情報」というのは非常に多義的であって、なんとなくイメージは出来るものの、具体的な定義をやすやすと与えることのできるものではないらしい。この、「情報」とやらの言葉に出来なさは、なんというか、ウィトゲンシュタインの言うところの、有名な、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と似たような何かがあるような気がする。

 あと、なんとなく勘で「情報哲学」で検索したらやっぱりあった。残念ながらあまり有名なジャンルではないようではあるが。日本語で書かれた体系的な書物がひとつ見つかったので、その著者の名前で検索したところ、意味論とか言語哲学のセンセだということがわかった。ふむ、やっぱりそっちに吸収されるか、といった感じ。

 まあでも、この際みなさんも一緒に考えてみて欲しいのですが、そもそも「情報とは何ですか」と問われた時に、簡潔に、かつ正確にその定義を答えることはできますか、というのが一つ引っ掛かりとして僕にはあって、それにも関わらず我々は日々多くの情報を受け取ったり垂れ流したりなんやかんやしているわけですね。要するに、ほとんどの人が何かよくわからないものを毎日好き好んで流通させているわけで。それってかなり不思議な状態ではないですか?私には不思議で仕方がありません。