僕として僕は行く。

旧・躁転航路

十分根拠率の極北

 何かとうまく行かなくて、特に人間関係がうまく行ってないのだけれど、なんでうまく行ってないかまるでわからないので、ちょっとどうすればいいかわからない。そういう時期なのだとすればそうなのだろうけれど、だからと言って僕はそういう時に指を咥えてぼーっとしているということが出来ず、だからうまく行ってないなら行ってないで理由を発見して改善したいと思うのだけれど、やっぱり何がどうなってるかわからないので、ただ単に困惑し続けるはめになる。

 ライプニッツという哲学者が「十分根拠率」という言葉で表したのは、すべてに因果があるということであって、僕は案外それを信奉しているのかもしれない。だからこそ、うまく行っていないことがあればその原因を突き止めて改善しなければ気が済まない。けれども、人間は、自由意志に基づいて、往々にして自分自身の思考・言動をも計算の内に収められていないような生き物なのだから、ライプニッツの十分根拠率には適用できないものなのかもしれない。自由意志の「自由」という言葉のなりたちを見ても、「自ずから由」となるとあり、要するにそれ以上の原因に遡ることのできない、それ自体が理由である、ということを表しているのだから、十分根拠率の極限にあるのはやはり自由なのかもしれない。


 計算できないことがある。理解できないことがある。そういうことを、僕は未だ受け容れられないまま、大きくなってしまった。みんな、そんなことをいつの間に受け容れて来たのだろう。みんなが自然と学んできたであろうことが、僕にはまだわからないままでいる。