僕として僕は行く。

旧・躁転航路

僕らもカラス

 カラスは数を数え上げることができるんだけど、大体いくつまで数え上げられるかっていうところでは諸説あるようで、昔どこかで11か19まで数えられるっていう話を見た気がするけれど、いま調べたら7までだとかいう話もある。まああんまり細かいところは気にしないとしても、カラスは多少の数までなら数えられるらしい。

 で、このエピソードは、「カラスってすげえ」みたいな感じの受容のされ方をしているようなんだけれど、僕としては、むしろ「なんでそこまで数えれてそれ以上が無理なんだよ!」という風に受け取っている。たとえばカラスが19まで数えられるものとして、彼らが19まで数えたところ、でも次の20になるともうわからなくなる。20も21も22も23も「とりあえずいっぱい」の範疇に収まるものになっちゃうらしいけど、これってよく考えると相当かわいいというか、微笑ましい光景だと思う。まあ人間もぱっと見で20と22のものがあったとしてもどちらが多いかっていうのを瞬時に判断するのは難しいと思うけれど、20と78兆の違いは一瞬でわかると思う。あと、いま『兆』の変換がなかなか出てこなくてかなりイライラした、iPhoneはどうでもいい漢字、とくに常用漢字以外のものを詰め込みすぎててかなり頭悪い感じになってる。あとiOS6にしてからSafariがやたらと落ちるのでムカつく。

 話が随分逸れてしまった、そもそもイラっとするとそれを言葉にせずにはいられない性分であるために時間を無駄にすることが多いのでスルー力をつけたいと思う。さて、カラスが数えられる数の限界の中途半端さがウケるみたいな話だったけれど、でもこれはカラスだけじゃなくてあながち人間にも無関係ではない話だと思う。というのも、人間といえども全知全能じゃないし、むしろ僕らはかなり限定された計算の能力の中でやりくりしているというのが事実である。ハイエクという経済学者・政治思想家が言っていた話で、社会主義がやろうとしていた、一国の経済をすべて計算してその最適分配を常に達成し続けることで、社会主義的正解を達成できるみたいな話は、人間はそこまで賢くないという理由で不可能だという話があって、人間が持ち得るのは「限定合理性」であり、それらが相補的に振舞って一個の総体としての市場が成立しているということを仰ってる。そう考えると、19はカラスの限定合理性なのだし、また人間には人間の限定合理性のようなものが歴然と存在しているというだけの話なのであって、そういう意味では僕らもカラスも全知全能の神というものが存在するとして、その神から見たら微笑ましいドングリの背比べに過ぎないように思う。己の無知を知れという「無知の知」をやっぱり忘れてはならないし、そうじゃないとカラスはバカだとか獣のくせにすげえなとかすぐに言い出すし良くない。地球に暮らす被造物としての僕らは、大同小異の限定合理性の中に生きている。