僕として僕は行く。

旧・躁転航路

あの少女は、このハンバーガーを食べたことがない

 あの地震で、 色んなこと、今まで見ないようにしてきた本当に色んなことが、まるでひび割れたコンクリートの中から、硬い硬いアスファルトの断裂の中から現れるようにして出てきて、それは無論僕にとっても例外ではなかった。そして、そんな風に僕の前に出てきた、これまで一生懸命硬いアスファルトの下に隠していたものの一つに、ケヴィン・カーターという写真家がピューリッツァー賞を取った、有名な「ハゲワシと少女」という写真がある。きっと多くの人があの写真をどこかで見たことがあるだろう。僕が見たのは中学生の頃の英語の教科書でだった。14歳の頃の僕にとっては、あの写真は、それまでの人生で見てきたものの中で一番ショッキングなものだった。それは僕にとても深い影を落とし続け、それから数年の間にわたり本当に色んなことをあの写真のせいで考えることになった。そういった思索のなかで、政治は救済ではなく暴力であるという考え方が身につき、高校生になったのちに追体験することになる、トム・ヨークのジュビリー2000の挫折はそのまま僕の挫折となった。僕ら先進国の富は、とても遠くの地の人々の富を収奪してなりたっているという考えから抜け出せなくなり、自分の足元がガランと崩れ落ちて何も無いまま、ただどうにか崖っぷちに捕まったまま何年も過ごすことになった。そして僕は、おそらく人生ではじめての、精神の不調というべき状態になった。人生も、政治も、命の価値も、生きる意味も、資本主義も、そして世界の何もかもがわからなくなった。そのままなだれ込むように大学受験の時期に近づき、僕はそういった問いの一切の上から硬い硬いアスファルトを敷くことにして、そしてその上を歩けるようにして、なんとか大学受験を、不本意とも本意とも言えないような成績で通過した。
 そんな風にして固めて作ったアスファルトの道路が、たった数時間ですべて潰れてしまって、その下から現れたのは、いまだグロテスクな色彩を未だ失っていないあの構図だった。震災の時、にわかに僕らは食料危機に陥った。その中で、大阪ではいつものように、そして何事もなかったかのように、ファミリーレストランも、スーパーも開いていて、沢山の食べ物が所狭しと並べられていた。しかし数百キロ向こうでは、命からがら逃げてきた人々が、たった一つのおにぎりを譲り合うような事態が巻き起こっていたのだ。あの時、日本はもしかすると、ルワンダと日本に分裂していたのかもしれない。そう気づいてからは、食事のたびに、不意にあの少女の姿を思い起こすようになってしまった。そしてそれは今でも続いていて、必要以上の食事をすることに極端な罪悪感に苛まれる。誰かに「食べていいよ」と言われない限り、多くを食事してはならないような気がしている。しかし、それでも随分と食べられるようになったほうで、一時期は食事がしたくないあまりに夕食時は寝たふりをして過ごし、ただ水を飲んで辛うじて生命を繋ぎ、どうすれば必要最低限の量だけで生きていけるか本当に悩んでいた。
 かつて一度あの写真をアスファルトの下に埋めてしまった時は、「生きるとはそういうことなのだ」という、不遜な思い込みによって押し込んでいたように思う。けれども、僕はもうそんな風に思い込めるほどナイーブではなくなってしまった。僕がすこし小腹が空いた程度で立ち寄ったマクドナルドで買って食べるハンバーガーを、あの少女は食べたことがない。きっと彼女は、食事というものが、そんな風に、必要最低限を満たすためではなく、ただなんとなく手持ち無沙汰という理由なだけで行われるものだということすら知らないだろう。