僕として僕は行く。

旧・躁転航路

爆音ゾーン

 クラブやライブハウスが最も優れている点は、音がバカデカい点だと思う。といっても、ただの雑音がバカみたいに大きな音で鳴っているのではなく、そこには音楽という名で纏められるような、音の調和的な連なりがある。ただ、思うに、音というものは音としか形容できない。少なくとも僕にとっては。それを何らかの文言、たとえば風景だとかに仮託して語るのは、音自体が持っている、言語的な「意味」からの自由を冒涜しているように思う。

 僕が、特定の音楽をして「意味のある音楽」、「意味の無い音楽」と言うのは、そこに何らかの言語的意味性、メッセージ性が載せられているか否かの区別に基づく。だから、本当に精神的に参っている状態、すなわち、耳に爆音を注いで意味性を遮断していない状況下における、全く度し難い、世界に意味性が氾濫しむしろ意味不明になっていて、そんな無闇矢鱈に多い意味性から距離を置いておきたい状態には、ライブハウスでバンドの歌を聞いているよりは、「ただダンサブルであること」のみを追求するような、歌詞のないダンスミュージックをひたすら聞いているほうが心地よい。あの空間の内部では、行ったことがある人はイメージしやすいかと思うが、フロアで隣にいる人に話しかけるのも耳打ちのようにしなければならず、そして耳打ちしたとしても会話は聞こえ辛い。要するに、そこは、「意味」を媒介とする言語的コミュニケーションの専横を、純粋に無意味性が覆い尽くしてしまう、この世における唯一のユートピアである。人は睡眠時ですら夢を見たりと、どこまでも意味性や物語性に束縛されているように感じるけれど、あそこでは、そんな風に語ろうとする無意識すらも沈黙せざるを得ない爆音がある。いわば、意味が無意味を屈服させられる空間なのである。そこには意味など無いのだから、当然ながら考えるべきこともない。無意識は、夢を見るときのように語ろうとするよりも遥かに強く、音の連なりに体を従わせようとする。意味も、意識と無意識も、ただ意味性を放棄した純粋な音の衝動の前には屈服せざるを得ない。

 そして、喫茶店で勉強している今も、僕は無意味で意味を塗りつぶしてやり、ただ目の前の書物が発している意味だけに選択的に集中できている。パーティションを挟んで隣のテーブルには、中学時代の、仲が良くも悪くもなかった同級生たちが座っているようだ。この人々は、僕にとっては紛れもなく「意味」だ。そして僕はそんな「意味」を求めてはいない。それは、今に限らず、恐らくは今後の人生もずっとそうだろう。僕にとって、世界にはやはり「意味」が多すぎる。そんなに多くの「意味」を抱えて生きていきたいとは少しも思えない。ただ少しの、本当に愛せる「意味」だけがあればいい。そしてそんな風に愛せる、数少ない意味の一つに、「無意味」としての「意味」をもつ音楽が、これまでも、そしてこれからも存在している。