僕として僕は行く。

旧・躁転航路

不能感とレイプ

 人生の閉塞感がすごい。この閉塞感は一体何なのだろう。語れども語れども何ら変わることがなく、ただ動くことによってのみ変わるのかと思いちょこまか動き回っても心境的には大した変化はない。同世代の人々が就職活動やら何やらで激動の生活を過ごそうとしているというのに僕だけは毎日本を読みそれをEvernoteにまとめタバコを吸い、ギターを握ってコードを探ししっくり来る言葉とメロディを探しているだけだ。ある程度の目標とそれに近づく生産性があるといえばあるのだけれど、それでも何か、というか、かなり、物足りない。ある程度インプットをアウトプットを行って生産性を確保しながらも、なぜこんなにも閉塞感に溢れ、俺はもはやどこにも行けないと感じるのか、もっともっと遠くに行きたいと思うのは一体なぜなのか、全くわからない。けれど、ただハッキリわかることと言えば、もっと世界を劇的に変化させることが必要とされているという、それだけである。でもそれはどうやればいいかわからない。燻っているというのはこういう状態を指すのかもしれない。燻ったままここで焦げ付いてしまうぐらいなら、勇み足で駆け出してどこかで燃え尽きてしまいたい。ただ、自分がいまどこに向かって駆け出そうとしているのかわからないから、加速できないまま、歩くようなスピードで、辺りをキョロキョロと見回し続けている。出来るならば、一点だけをきっと見つめて振り返ることなくただ真っ直ぐに駆けていきたいと、ひたすらに感じている。

 そんな自分をどうにか諌めながら、ふと思う。多くの人は、こんなえも言えぬ不能感をどうにかしたいと思い、暴食するのかもしれない。確かに、何か食べてしまえば、それで満足するものがありそうな気がする。けれど、生理的な欲求それ自体のためではなく、何らかの不能感を満たすために生理的な欲求を満たすのは、ある意味レイプと変わらないのではないか。こんな風に僕が考える時に必ず思い浮かぶのは、自由に大地を駆けまわる豹だ。彼らは気高く、必要以上のものを求めはしない。けれど、そんな満ち足りた彼らを、必要以上のものを求める満ち足りない人間たちが、生身の肉体そのものでは勝ち目がないという理由で文明の力を用いて捉えて、皮を剥ぎ、そしてカバンやコートにしてしまう。彼らの気高き生は蹂躙され、犯される一方で、勝者のみがエクスタシーに至る。食べ物だって究極はそうだ。僕はベジタリアンではないけれど、あまりに生々しい肉を目の前にすると、さっき言ったようなことが思い浮かんで手をつけられないということがたまにある。だから僕は必要以上の食事をすると罪悪感に見舞われてひどいことになるのだ。23年も生きてきて、「それが生きるということである」と割り切れない気持ち悪さを未だに引きずっている。誰もがそんな気持ち悪さに何時の間にか折り合いをつけて生きているのだとすれば、僕はなんとマイペースなのだろう。それでも、この気持ち悪さを無視したまま進み続けるぐらいならば、あまりに遅い僕の歩調を守り続けるほうが良いと感じている。だから、僕は簡単にどこかに行くことはできない。