僕として僕は行く。

旧・躁転航路

人生の免許

 こんな奥まった席に案内されたのははじめてのことで、ここは立ち上がれば全ての座席を一望できるような場所にあり、それでいて誰にも見られることの無い席で、元々卑怯にもそういう風に一方的に見ることの出来る位置が好きな悪趣味な僕は、今日はいつもより集中できるかな、と思っていたのだけれどさっき買った小説の内容すらもほとんど入ってこない。それもこれもおそらく薬を飲んでいないからであって、それなら仕方無いかと心の中で呟きながら財布の中の常備薬入れから向精神薬を取り出してアイスコーヒーで流し込んだ。
 19日にサマーソニックに行って一日中暴れてからというものの精神状態は極めて良く、食欲があるというのがどういう状態を指すのかも思い出したようでよく食べられるようになったし、精神状態が悪い時にありがちな、他人の会話や意味のある音楽を聞いていると頭がおかしくなりそうな思いをすることもこのところずっと無かったから、もはや俺の病気も完治したし、定期的にそうやってガス抜きすれば治るものなのだとポジティブな感じでずっと過ごせていて、薬も半分ぐらいに減らしていたのだけれど、目立ってイライラしたり落ち込んだりこそしないだけで完治したわけではないらしいし、そもそもそんなに簡単に治るものでもないらしい。だいたい自分の精神状態は3つのフェイズがあるものだと思っていたけれど、その3つ、悪・並・良の悪と並の間に、おみくじで言うところのちょうど末吉のようなレベルで今のような段階があるのだと気付いた。そういえば、小吉と末吉ってかなりややこしかったよな、とか、吉末くんという中学の時の友達ちはいま何をしているのだろうかとか、色々考えたり。

 さっき、まだ家にいる時、ちょうど外出の準備でもするか、と思ってその前に一服しようと思って煙草を吸っていた時に、初心者マークの貼ってあるプリウスが僕の家の前を通った。あの初心者マークにはどういう意味があるのだろう、とか考えてみると、当然ながら、そのシールが貼られた車両の運転手は車の運転に不馴れであるということを周囲に知らしめる意味があって、そういう風にちゃんと表示しておかないと、周囲に想定外の迷惑をかけたりするから貼っているのだろう、それなら人生の初心者マークがあればいいな、と思った。人生が下手な人間も、初心者ドライバー同様、外見だけではわからないけれど、車の運転同様、いつ人を傷つけるかわからない。もしそういうものがあれば、僕はこっそり自分のリュックにでも貼って出掛けたいと思う。
 同じような発想として、こないだ、人生も免許制にする必要があるんじゃないかと思った。人生は、その取り扱いを間違えると、最悪の場合死に至るし、非常に危険だから、人生という危険物取扱士みたいな感じで免許制にしたほうが良い。ただ、もし人生の免許制が始まったとしても、それを承認するのは誰なのか、そんなにエラい人間がどこかにいるのかという問題は残る。多分だけれど、メジャーな宗教っていうのはそういう風な意味合いも実はあったのではないかと思う。この迷いやすい人生の免許証が洗礼なのであって、だからこそ無宗教という宣言や異教徒の装いが、ある種の土地では危険人物という風に受け取られることがある。免許でいうと、無宗教は無免許に、異教徒は外国免許しか持たないことをそれぞれ意味していると言えるだろう。
 宗教をもたない僕らが人生の免許を手に入れるには、自分自身で道に出て行って事故を起こしてボロボロになりながら少しずつ学んでいく他ない。いや、宗教があっても、この時代では誰でもそうなのかもしれない。たまたまそれが上手い人と、そうでない人がいて、当たり前だが、上手いと思ってたけれどそうでもなかった人間だっていてもよい。でも、上手いとか下手だとかは本来的にはどうでもよくて、本当は免許なんていらないし、事故だって起こりまくって当然なのかもしれない。少なくとも、事故を起こさないために当たり障りの無い運転しかしない人間よりも、どうしても事故を起こしてしまう人間のほうが、僕は信頼できると思う。