僕として僕は行く。

旧・躁転航路

意外と重いダンベル

 出来もしない責任を抱え込んできたせいでパンクしている、というのが現状に対する最も明確な説明なのかもしれない。僕が就活が上手くいってる段階で考えていた事とは、弟の大学費用も全額出し、弟が大学を出るぐらいには僕も結婚して孫の顔を見せてやるみたいなプランを思い描いていたのだけれど、よく考えたら、それで僕自身はまるっと満足行くかといえば多分そうじゃないし、それでも騙し騙しやろうとして、完全に分裂してしまったのが今なのだと思う。

 ということを、先輩の子ども(乳幼児×2)と遊んでて思った。乳幼児がいるということは、当然就職もしていて家庭があるということなんだけれど、そうなってくるとほとんど自分の時間など無いに等しい。朝早く仕事に出て、帰ってきても子どもの相手をしているわけだから、そこに自分の満足とか楽しみなんてものは存在しないに等しい。強いて言えば、子どもの成長とかそういうのを唯一の楽しみとしている節がある。それはもちろん幸せだと思うけれど、もし僕が急にそこに飛び込むことになれば、多分いつか辛くなって破綻して今みたいなことになるのは目に見えている。もちろん、結婚とか子育てとか、よきタイミングを待っていたって多分ずっと来ないものなのだから、ある程度勢いでバッと行っちゃうほうがいいことなのかもしれないけれど、今はあまりにもそのフェイズではないのだ、心身ともに、公私ともに、ということを改めて考えることとなった。

 なんでそんな責任を抱え込むのが好きなのか、というと、責任を抱え込めるだけの器があるニンゲンのほうがクールで、そして自分は人より重たい責任を与えられてもこなせるという思い込みがずっとあったからなんだと思うけれど、実際は僕自身が持てる重たさの許容量を越えていたのである。でも、もしそれでとりあえず就職が決まって動き出していたとしても、問題はいずれ顕在化していただろうし、そのタイミングでぶっ潰れていたのは目に見えている。ダンベル上げは、持ち上げるだけではダメで、一定時間持ち上げた状態で停止して初めてポイントとして認められる。だから、実を言うと、持ち上げる前に問題が見えてきて良かったのかもしれない、等と、足元に横たわったままの放棄されたダンベルを見ながら今考えたりしている。